白い記憶

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第5章  漆黒の闇に取り込まれたのは寧ろ心であった。視線の先には底知れぬ深い世界があった。私は恐怖の意識から逃れるために、ひたすら走り続けた。しかし前後左右に見える暗黒は依然変わらぬままで私をずっと取り囲んでいた。  夕暮れの時は長くは続かなかった。やがて日が落ちると私は失意の中に埋没して行った。  そこに何かいたのだろうか。今となってはそれを見極めることは出来ない。私の意識は遠のき、そして弱くも速い呼吸の音だけが耳を聾していた。  何故こんなことになったのだろうか。そうだ。私はあれに襲われたのだ。あれが突然現れて、そして・・・・・・。  体を動かすと胸の辺りに鋭い痛みが走った。肋骨が折れているかもしれないと思った。それでも無理に体を起こそうとすると激痛が走り、その不安定な姿勢からどうにも出来なくなった。このまま夜が更け、気温が下がればきっと凍死してしまうだろう。仮にそうならなくても、誰にも発見されず時が経ち、餓死してしまうだろうと思った。既に足の感覚がなくなっていて、その場から一歩も動けなくなっていた。  かずくんがいなくなった数日後、林間学校の敷地にあったあの大きな池から彼は見つかった。パンパンの体型に緑というよりもどす黒い藻が全身に絡みついていて、最早それが誰だかわからない状態だったらしい。  どうやらかずくんは池の淵から足を滑らせ、そしてそこに落ちたらしい。そして慌ててもがいたものの手足にあの藻が何重にも絡みついてとうとう溺れてしまったのだろう。  でもどうしてかずくんはあの池に一人で行ったのだろうか。私はもしかしたらともちゃんを捜しに行ったのではないかと思った。ともちゃんが向った禁断の地はあの笹薮ではなくて、大きな池の方だったのではないだろうか。そしてそれをかずくんは一人で確かめたかったのだ。何故なら私が一人で笹薮に行ったのと同じ理由だったに違いないからだ。  そしてもしかしたらかずくんは笹薮を以前一人で行ったことがあったのかもしれない。だからあそこがそれ程危険な場所ではないことを予め知っていたのではないだろうか。あの白いブロック塀にしても金網にしても、大人でさえそこを乗り越えることは出来ない。そうであれば寧ろそこは安全な場所である。かずくんは自分の中で許せる範囲で私と共有出来た勇気の証は、あの禁断の地を一緒に制覇することだったのだ。それで次に彼は大きな池に挑戦したのだ。勿論そこには一人で行かなければならない。一人で行って一人で戻って、そしてそのことを私をはじめ、友達みんなに自慢するためだ。そしてもしそこにともちゃんの亡骸でも見つけることになったら、彼の勲章は更に一つ増えることになったのだ。  私は大人になりいつしか雪山に取りつかれた。周りに山に関心がある知人は一人もいなかった。映画か何かで雪山に命を懸けて登るシーンに魅せられ、それで夢中になってしまったのだ。  今思うと命の軽さ、儚さを体験出来るような気がして、それで雪山に登るようになった気がする。そしてそれはともちゃんやかずくんの存在が自分にそういう気持ちを起こさせたのだろうと思った。ともちゃんはきっと体調を崩して幼稚園を休み、そしてその時ちょうど父親の転勤が決まっていたのだろう。しかしともちゃんが私の前から忽然と姿を消したことには違いない。それも間接的ではあるが、あの禁断の地へ行くという言葉を残してである。  それからかずくんにしては私と二人であの地を実際に訪れたのだ。そして彼は消えた。そうだ。あの大きな池で死んだことで、私の目の前から消えたことには違いなかった。私は記憶を捻じ曲げてかずくんの喪失をあの禁断の地と結びつけていた。  あの日、私はかずくんと禁断の地へ行ったものの、特別な収穫を得ず意気消沈して帰路についたのだった。心の中に何かが鬱積していた。そしてそれが爆発しそうだった。するとかずくんも私の気持ちを察してか、突然大きな奇声をあげた。その途端私は首筋辺りに冷たい感触を覚えて大声を張り上げた。見るとかずくんは私よりも数メートル先を走って行った。私はその場に取り残された感じがして一気に恐怖に呑み込まれた。それでかずくんの後を急いで追い掛けようとしたが足がすくんでしまって上手く駆け出すことが出来なかった。既にかずくんは通路の出口に到達していて、そこから左折すると姿が見えなくなった。 (かずくんが消えた)  それでそう思った。すると恐怖が更に増して襲って来た。それから涙が出て来た。私はなんとか駆け出すことに成功すると、その足は自宅へまっすぐ向かった。自分を置き去りにしたかずくんとは顔を合わせたくなかったからだ。それから家に飛び込むと真っ先に母の元へ急いだ。そしてその姿を見つけると恐怖が安心に変わった。それから悔しさが自尊心にすり替わった。私は決してかずくんより弱い存在ではないと思った。しかし彼に置き去りにされ、怖くなりそして涙を流した。その恥ずかしさをすり替えるためにかずくんを自分より弱い存在にしたかった。それでかずくんが消えた、何物かに連れ去られたと母に告げたのだった。  母と禁断の地から戻って来ると母はかずくんの家に恐る恐る電話を掛けた。するとかずくんのお母さんが出て、かずくんが戻ってることを知らされた。 「かずくん帰ってるって」  電話を切ると母は怒った口調でそう言った。 「もう。驚かすんだから」
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