駅の地下道で

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駅の地下道で

 売り切れ寸前だった卵を無事入手し、僕は駅前のコンビニに向かった。あのコンビニではいま、僕の好きなキャラクターとコラボしたくじをやっている。狙うはA賞のホットサンドメーカーだ。  店の前に自転車を停めて入ろうとすると、すぐ近くの地下道からギターの音と女の人の歌声が聞こえてきた。僕も知っている流行りの歌が、ジャカジャカと賑やかに鳴るアコースティックギターとともに高らかに響く。  ストリートミュージシャンの演奏は僕も何度か聴いたことがある。今すぐデビューしてもおかしくないくらい上手い人には、応援のつもりで千円札をギターケースに置いたこともある。今日の人もけっこう上手い。ちょっと見るだけなら、と思って僕は地下道の入口から下を覗いた。 「あ」  似ている、と思った。声。髪型。着ているもの。全て見覚えがあった。いや、でも、まさか。彼女が人前で歌なんて。  でも、どこからどう見たってそうだった。クラスメイトの野口さん。彼女は現代文や英語の授業では誰よりも小さい声で朗読するし、黒板の前に出て数学の問題を解くときなどは文字が小さすぎる、と注意される。それをくすくすとクラスメイトに笑われて、顔を赤くして俯くような人だった。その彼女が、こんなに堂々と楽しそうに人前で歌うなんて。  歌も演奏もハイレベルだ。原曲のキーと寸分違わず声を当て、伸ばす音は最後にわずかにビブラートをかける。それが彼女だけの魅力に変わって、まるで彼女のために作られた曲のように仕上がっている。道行く人たちの何人かは立ち止まり、僕と同じように聴き入っていた。  惜しみない声量。滞りなく刻まれるギターのリズム。メロディに合わせて体が揺れて、いま、彼女は完全に一人のアーティストだった。  最後にジャン!と締めて曲が終わると、ギャラリーから拍手が沸いた。途端、いつもの彼女に戻った野口さんは恥ずかしそうにあちこちにお辞儀をした。  僕は見つからないように、階段の上のほうに腰掛けて次の曲を待った。隠れたのはなんとなくだ。僕がここにいると知れたら、彼女はすぐに去ってしまうような気がして。  お客さんにリクエストをもらった彼女は、スマホで歌詞を調べ、軽くギターを鳴らして本番に入った。緩急をつけて鳴るギターと遠くまで届くような彼女の声。野口さんの歌はどれも優しくて、心地良かった。  その後続けて2曲聴いて、僕はお使いの途中だったことを思い出し、何も言わずにその場を離れた。またここへ来たら彼女の歌が聴けるだろうか、と思いながら。
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