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「まあいいわ。ひとつひとつ丁寧に説明しましょう。信じ難い話になるかもしれないけれど……」
含みのあるネネの言葉に、月霞に再び緊張が戻る。
「まずは、世界の真実を話しましょうか。
あなた、お名前は?」
「言ノ葉月霞です」
「月霞さん、良い名前ね。
まず、この世界には、白の世界と黒の世界というのがあるわ。
今、あなたが居る此処が黒の世界。
そして、あなたが生まれてから、今に至るまで過ごして来たのが白の世界。
こう例える方が理解し易いかしら。
あなたが居た白の世界が『表の世界』、あなたが突如やってきてしまったこの世界が『裏の世界』。
此処までは、わかるかしら?」
ネネの言葉に、月霞は眉間の皺を深くする。
「私が暮らしていたのが、『表の世界』で、今私が居る此処が、『裏の世界』……」
「そうよ。
此処に来るまでに、大きな時計を見なかった?」
月霞の脳裏に、すぐさま、先程目を奪われた大時計が思い浮かぶ。
「見ました。すっごく大きな時計」
「あれはね、『表の世界』の基準となる時計なの。
時計だけじゃない、太陽と月が昇るのも、生物の生き死にも、此処『裏の世界』が司っているのよ。
つまり、『裏の世界』は文字通りの『裏方』。黒子として『表の世界』を支えているの。
『表の世界』の人達は、わたしたち『裏の世界』の存在を知らないけれど、『裏の世界』がなければ、『表の世界』は成り立たない。
それが、世界の真実」
飽和した情報で満たされた月霞の脳は、もはや新しい情報を処理し切れずに、受け入れを拒んでいる。
しかし、絵空事とは思えない。
月霞は、実際、自分が住んでいたのとは、明らかに違う世界に、こうして立っているのだから。
「どうして、『表の世界』の人は、『裏の世界』のことを知らないんですか?」
「……それは、残念ながらわたしにもわからないわ。
ただ、わたしたちは、裏方として生まれ、当然のように『表の世界』を支えている。
月霞さんたちが当たり前のように暮らせるよう、わたしたちはそれぞれの仕事を果たしているのよ」
考えたこともないような『世界の真実』に触れ、月霞は、信じられないという思いとともに、自分が暮らして来た『表の世界』に思いを馳せる。
この世界に来てから、見聞きしたこの世界の光景が脳裏に浮かぶ。
ネネの話を鵜呑みにすることは出来ないが、月霞がごく当たり前に生活を送れたのは、ネネたち『裏の世界』の人達の存在があってこそだと言われてしまうと、信じ切ることは出来ないまでも、頭から否定する気にはなれない。
『裏の世界』が、異世界と言うべきなのか、別次元に存在する世界と言うべきなのか、月霞には判断が付かない。
けれど、自らを『死神』と名乗った大夢や、『罪』の話、この目で見た大時計や、ネネの話を聞いた今、完全に『世界の真実』を否定するのは難しくなっていた。
「『表の世界』から、『裏の世界』に来るのが、どういう人なのかは、大夢から聞いた?」
「……はい。『表の世界』で『罪』を犯した人……ですよね」
「その通り。でも、月霞さんは、大夢によって『無罪』だと結論付けられた」
立ち尽くす月霞の隣に居た大夢が頷く。
「『裏の世界』は、基本的に罪を犯した『有罪』の人が、魂だけの存在となって、死神の審判を受けに来るところなの。
『裏の世界』に来た時点で、『有罪』であることはほぼ確定しているはず。
でも、月霞さんは違った。
大夢の審判が間違っているとは思えないし、もし間違っているとしても、あなたの魂の帰し方がわからない。
わたしに少し時間をくれないかしら?
前例のないことだから、調べてみるにしても時間が掛かるかもしれない。
結果が出るまで、待っていて欲しいの」
やはり、自分はそこまでイレギュラーな存在なのか。
他人の手を煩わせてまで、自分は本当に元の世界に帰りたいのか、月霞は疑問だった。
それに何より……。
「やっぱり、私は『有罪』である、という可能性はないんですか?」
『罪』という言葉がどうしても引っ掛かる。
自分が『無罪』だとは、許される存在だとは、どうしても思えないのだ。
すると、疑問を呈した月霞を、大夢がぎろりと睨んできた。
「俺が判断を間違えたって言いたいのか?」
美形の迫力満点の睨みに、身を竦めた月霞を庇うように、ネネが割り込む。
「大夢、女性を睨まないの。
月霞さん、怯えているでしょう。
あなたは元々、目付きが悪いんだから、あなたの方が犯罪者みたいよ。
でもね、月霞さん。
死神は、魂に刻まれた『罪』を見抜く能力に特化した存在なの。
どれだけ巧妙に罪を隠しても、魂に刻まれた罪の匂いを死神が誤認することは有り得ないわ。
よっぽど新米の見習いなら可能性もないかもしれないけれど、見ての通り大夢は成人した、経験豊富な死神だから」
犯罪を犯した者の魂を『黒の世界』に召喚し、罪の重さに応じた『罰』を科すのが、死神の仕事……。
そこで、ふと月霞は根本的な疑問を抱いた。
「『罰』とは、どんなものなんですか?」
火炙りだとか、水攻めだとか、地獄に堕ちたあと待ち受ける永遠の苦痛を何となくイメージしていたけれど、黒の世界を見る限り、そんな残酷な『罰』は一見平和そうなこの世界では想像出来ない。
ネネが、穏やかに微笑みながら、作業机に置かれた水晶玉に目を落とす。
「そうね、この世界の仕組みを説明するわね。
『有罪』になった魂は、死神によって、体から取り出される。よって、体は消滅──つまり死を迎えるわ。
そして、死神が取り出した罪を刻んだ魂は、わたしの元に運ばれる。
わたしは魂の汚れを綺麗に拭き取り、まっさらな状態になった魂を宿した人間が、黒の世界に生まれる。
街中で、子供たちをたくさん見掛けたでしょう?」
そういえば、とお揃いの服を着た子供たちと擦れ違ったことを思い出し、月霞は頷く。
「あの子供たちはね、わたしが磨いた『有罪』の魂を宿して生まれて来た、『半人前』と言われる存在なの。
もちろん、『半人前』たちに前世の、罪人だった頃の記憶はないわ。
わたしが綺麗に刻まれた罪を拭き取ったからね。
そして、半人前たちはこの黒の世界で白の世界のために汗水垂らして働き、善悪の判断が付き、魂が成長し、犯罪を犯す可能性がないと認められた者から、半人前の役目を終え、再び白の世界に生まれ変わっていく……。
死神は、白の世界で犯した『罪』の重さに応じて、何年半人前として過ごすかを決めるのが仕事なの。
充分、魂が浄化されたと死神に判断された魂は、生き物の生き死にを扱う部署に送られ、『表の世界』へと帰る。
それが、白の世界と黒の世界の仕組み」
月霞が住む白の世界の治安を守っていたのは、ネネたち黒の世界の人間ということだ。
此処まで来ると、『裏の世界』の存在を、信じないのは、いよいよ難しくなる。
凶悪な犯罪は減らないけれど、黒の世界の人間たちが、根気強く罪を浄化してくれている、ということなのだろう。
彼らの献身的な仕事に、感謝しなければいけない、と月霞の背筋が伸びた。
「さて、当面の問題は、月霞さんが身を寄せる場所ね。
まだこの世界で、ひとりで暮らすには不慣れでしょうし、月霞さんがこれからどう扱われるのかも未知数……。
白の世界に帰れる方法が見付かるかどうか、わたしにもわからない……。
月霞さんが黒の世界に来たことに意味があるのかないのかすら、まだわからないからね。
わからないことだらけで不安かと思うけど、わたしたちも、迷えるあなたの魂のために、全力で手を尽くすわ、安心して」
消え入りそうな声で、「はい」と答えた月霞の横に立つ死神に、ネネが意味ありげな目配せを送る。
すると、それに気付いた死神が、心底嫌そうに表情を歪めた。
桜色の唇を、ほっそりした人差し指で触れながら、ネネは死神から目を離さない。
目が笑っていない、とはこのことか。
「俺の家に置けって?」
「そう、さすが大夢。物分かりがいいわね」
有無を言わせないネネの微笑に、月霞は空恐ろしさすら感じ始めていた。
見た目通りのただの綺麗なお姉さん、ではなさそうだ。
「あのなあ、家は迷子を預かるための施設じゃねえんだぞ」
「同じようなものでしょ。
ちょっとくらい居候させてあげても罰は当たらないんじゃないかしら」
「た、大夢さんの家に!?」
途端に月霞が狼狽え出す。
──死神の住む家?
月霞の頭の中に、動物の骨がゴロゴロ転がる暗闇の屋敷が出来上がる。
そこで、次の獲物を狙うように、不敵に笑う死神──。
おどろおどろしい想像を完成させた月霞は、顔を真っ青にする。
「あの……いいです、私は、そんな……。経験はないけど、その辺の路上で寝ますから!」
震え出さんばかりの月霞を見て、その頭に浮かぶ想像を覗き見たような顔をすると、次の瞬間ネネが弾けたように笑い出した。
「そうよね、死神なんて、白の世界の人間からしたら、想像の産物でしかないものね。一緒に暮らすなんて、そりゃあ、不吉よね」
すると、大夢がぶすっとした表情を作り、「不吉で悪かったな。嫌なら来るな」と不機嫌全開で月霞から顔を背ける。
「大丈夫よ、月霞さん。
彼は善良だし、役職に忠実なただの死神だから。
あなたを襲ったりしないわ。
それにね、大夢は一人暮らしじゃないの。
半人前たち数人と、シェアハウスに住んでいるのよ」
「シェアハウス?」
「そこには、きちんと料理や掃除をする人もいるし、半人前の可愛らしい子供もいる。
心配しないで、お世話になったらどうかしら?
さすがに、この世界でも、路上で寝ることはおすすめしないわ」
月霞は、おずおずと、長身の死神を見上げる。
子供たちと暮らす死神なんて、想像が付かないが、人食い魔女の巣窟のような家ではなさそうだ。
いや、そう願いたい。
「あの……いいんですか?」
「別に、構わない。
家主でもないし、俺に決定権はない。
それに、俺が嫌だと言ったところで、そこに居る奴がハンナに話を回すだろ」
死神は、視線だけで『そこに居る奴』、つまりネネを示す。
ネネは否定せず、にこにこしている。
何だか、この二人の力関係が良くわからない。
「ハンナ?」
月霞が問うと、「住み込みの家政婦だ」と大夢は言った。
家に女性が居るとわかり、安心した月霞は、死神に頭を下げかけ、ふと思い出す。
「私、何も持ってない……服とか、お金とか、身分証とか……」
「服なら、ハンナに用意してもらえばいいだろ。
お前は魂だけの存在なんだから、風邪を引くことも、怪我をすることもないんだから、病院に行くこともないだろ。よって身分証も必要ない」
「でも、タダで泊めてもらうわけには……」
「ごちゃごちゃうるせえなあ。じゃあ、働けばいいだろ、半人前たちと一緒に」
大夢は、イライラして来た様子で、銀髪をかき回す。
「働く?出来るんですか、そんなこと」
「俺が知るか。そういう面倒臭いのは、ネネの仕事だ。そいつに聞け」
丸投げされたネネは、苦笑を浮かべる。
「わたしも、そういう根回し担当ではないんだけれど。
でも、ひとりでこの世界にやって来た月霞さんは心細いでしょうし、わたしに出来ることなら何でもするわ。
出来る限り、あなたの処遇が決まるまで協力するつもりよ」
「ありがとうございます!」
月霞は、ネネと大夢に向かって深々と頭を下げる。
本当は、ネネの優しさに、少し泣きそうになっていたのだが、幼い子供でもないのに、泣くのは恥ずかしいと、きつく唇を噛んで堪えた。
「しょうがねえなあ、じゃ、行くか」
「はい」
漆黒のローブを翻してネネの工房を出て行く大夢の後を追いながら、月霞は再度ネネに頭を下げた。
ネネは小さく手を振って微笑んでくれた。
外は、夕暮れだった。
何処かから子供の、半人前たちの声がする。
大時計の前を通過しながら、時刻を確認した大夢が「遅れてるな、今日の月は」と呟き、空を見上げた。
月霞もつられて顔を上げる。
ゆっくりと、夕陽が傾いて行く。
街は茜色に染まり、幻想的な異国情緒を醸し出す。
美しく整備された通り。
買い物を済ませて家路を急ぐ人々。
仕事終わりなのか、はしゃぎながら駆け回る半人前たち。
月霞が居た世界と、何ら変わらない風景が、其処には在った。
彼らは、自分たちが見知らぬ世界の人間のために働いていることを知っている。
その上で、充実した表情で活き活きと、『裏方』に徹して月霞たち白の世界を支えているのだ。
月霞の胸に、言葉にならない感情がこみ上げる。
──自分なんかのために。
迷わないように、道順を頭に叩き込みながら、やるせない思いを飼いならせずに、もやもやとした気分で、月霞は俯いた。
この世界で、自分はわずかでも、役に立つことは出来るだろうか。
人を傷付けてしまった償いを、果たせるだろうか。
目の前に、噴水広場が見えて来た。
先程は通らなかった道だ。
丸い人工の泉から、空に向かって噴き出す水が、きらきらと夕陽に反射して粒子を光らせる。
ダイヤモンドのようだな、と月霞は目を奪われる。
広場には街灯と瑞々しい葉を豊かに付けた樹木が等間隔に並んでいる。
憩いの場には、ベンチが設けられ、夕食だろうか、パンに齧り付いている人も居る。
やがて、細い道に入り、住宅が密集する景色に変わった。
家々からは、温かな光りが洩れて来て、カチャカチャと食器が触れ合う硬質な音が聞こえて来る。
食欲を刺激する香りが、あちこちから漂って来て、月霞は初めて空腹を自覚する。
この世界に来てから、ずいぶん時間が経ったのだと、改めて思い知らされた。
ふと、両親の顔が浮かぶ。
今日、何を食べるんだろう。
それどころではない、大変なことになっているのかな。
大夢は、白の世界で、月霞は仮死状態にあると言っていた。
心配、してくれてるかな。
……してくれているといいな。
「あの噴水広場を覚えておけ。広場からネネの工房へ向かう方が、大時計や各省庁なんかの、重要拠点がある地域だ。広場からこっちは住宅街。俺たちが住んでいる地域だ」
不意に死神に話し掛けられ、はっと月霞は思考に蓋をする。
今は、大夢にこれ以上迷惑を掛けないように、この世界のしきたりを覚えることに専念しよう。
いくつか角を曲がると、クリーム色の外壁の、三角屋根の可愛らしい家が見えて来た。
「此処が家だ」
月霞が頷くと、大夢は、ネネの家でそうしたように、断りなく玄関のドアを開け、中に入って行った。
気後れしながら、月霞も続く。
どんな人が暮らしているのだろう……月霞は本日何度目かの緊張に表情を強張らせた。
次第に暗くなっていく作業場で、ネネは物憂げに机に転がる水晶玉に目を落としていた。
今日の日暮れの時間は長い。
半人前たちが手こずっているのだろう。
「とうとう、この日が来たのね」
溜め息のように、細く息を吐き出すと、ネネは決然と言った。
「今度こそ、あなたの好きにはさせない。あの頃のわたしじゃないわ。
覚悟していて、お父様」
言葉は、作業場の闇に吸い込まれ消えて行く。
ネネの決意表明を聞く者は、誰ひとりとして居なかった。
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