天体課

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天体課

 冷や汗を大量に流して、月霞は今日の仕事を終えた。  正直、ゴンドラはかなり怖かった。  リノが鍵を管理する鍵穴がある箇所の反対側、大時計の正面左側には、非常階段のような、螺旋階段が取り付けてあり、頼りない手摺りを、汗で滑らないように注意しながら掴んで上ると、屋上のような、数人が歩ける広い空間が出現する。  其処(そこ)には、頑丈なフックに括り付けられたゴンドラがあり、それを徐々に吊り下げて行き、歯車の真ん中辺りの掃除と油を差すという作業をする。  ところが、月霞(げっか)の命綱を握っているのは、半人前たち──つまり、人力なのである。  ひとりでも集中力を切らせば、月霞の体は地上に真っ逆さまというわけだ。  おまけに今日は風が強かった。  ゴンドラが揺れる度、半人前たちが「わあっ!」と叫ぶので、その声を聞いた時の恐ろしさと言ったら、遊園地のお化け屋敷の比ではない。  ゴーストハウスに居たって、こんなに肝を冷やすことはないだろう。  夕暮れを迎え、リノに引き摺られるように帰路についた月霞は、窓から洩れて来る橙色の温かな光りを視界に映すなり、ほっと息を吐く。  長い一日を乗り越え、やっとシェアハウスに帰って来たのだ。  疲れ果てた体が、少しだけ持ち直す。   「ただいま〜」  リノがそう声を掛け、散乱した靴を揃えて並べると、室内へ入って行く。  リノに続いてダイニングに足を向けた月霞は、キッチンに立つ人物を見て、驚愕に声を失った。  長い銀髪を頭の後ろでお団子にして纏め、エプロンをした死神が、「やっと帰って来たな。早く帰れとあれだけ言ったのに」と言葉に反して満面の笑みで月霞を迎えた。 「あの……大夢(タイム)さん、どうしたんですか?」 「見りゃわかんだろ、メシ作ってたんだよ。  ほら、早く手洗って来い」 「メシ……?大夢さんが?」  目の前の光景が信じられないまま、リノと共に洗面所で手を洗い、半人前たちが、今か今かと、目を輝かせながら待ちわびるダイニングに戻り席についた。 「大夢、まだー?」  初めて会った日、大夢『兄ちゃん』を卒業した、元気な男の子──トーマがワクワクした面持ちでテーブルに身を乗り出す。 「待ってろ、今、盛り付けるから」  そう言うと死神は、手際良く人数分の皿に何やら盛り付け、「ほらよ」ととても接客業に向かない言葉遣いとともに、月霞の前に皿を置いた。  もうもうと湯気を立ち昇らせているのは、きのこのスープパスタだった。  芳しい香りに、月霞のお腹が、ぐうと鳴る。 「これ……大夢さんが作ったんですか?」  パスタを凝視しながら問うと、リノが代わりに答えた。 「大夢兄(タイムにい)の趣味は料理なの。  ストレス解消なんだよね。  暇があると、こうやってみんなにご飯作ってくれるの」  大夢も自分の指定席に座ると、「ほら、食え」と皆を促す。  食卓には、スープパスタとサラダがセットになって、人数分並んでいた。 「いただきます」  と、リノの言葉に合わせて、みんなで手を合わせたあと、夕餉が始まる。  恐る恐るスープパスタに口を付けた月霞は、「美味しい!」と思わず叫んでいた。  塩味が効いていて、きのこから溢れる旨味とあいまって奥深い味がする。  例えば、専門店の料理だと言われて出されても、疑いはしないレベルだった。  これは、趣味の域を超えている。 「凄いですね、大夢さん。  お店出せますよ、これ」  月霞が素直に称賛すると、死神は満更でもなさそうな顔で、豪快にパスタを啜る。  マナーの方はよろしくないらしい。 「大夢さんの作った料理は本当に美味しいねえ。  もっと作ってくれると、あたしも助かるんだけどねえ」  ハンナも笑顔でパスタを口に運んでいる。 「そうだよ、大夢、毎日作ってよ!おかわり!」  トーマが、早くも空になった皿を大夢に差し出す。 「大夢『さん』だろ」 「うん、大夢さん、大夢さん!おかわり、早く!」   「全く、調子が良い奴だな」  溜め息を吐きながらも、差し出された皿を受け取って、死神がキッチンへ向かう。 「毎日作られちゃうと、あたしの仕事がなくなっちゃうんだけどねえ」  ハンナの言葉に、はっとした様子で「ハンナのご飯だって美味しいよ!」とトーマが少し慌てた様子でフォローする。 「そうかい」と、ほっとした様子のハンナを見て、案外、トーマは世渡り上手なのかもしれないな、と月霞は思わず考える。  連日の激務で疲労が溜まった体に、塩分が優しく染み込んで行く。  ほかほかのパスタを口にする度、月霞の心と体は温かさに癒やされて行った。  風呂を出た月霞は、ひとけがなくなったリビングのソファに寝転ぶ死神を見付けて、思わず笑顔になりながら近付いて行く。 「大夢さん、今日のご飯、本当に美味しかったです。  大夢さんの趣味が料理なんて、意外でした。  ……て、あれ?  大夢さん?」  暗くなったリビングで、ソファに寝転んだ死神は、すやすやと、寝息を立てていた。  精密に設計して造れられた芸術品のような美貌の死神の初めて見る寝顔は、思いの外あどけなく、無防備だった。  月霞が近付いても、ぴくりともしない。  穏やかな寝顔を見ていた月霞は、思わず「可愛い」と呟いてしまった。  死神の趣味が料理だということも充分ギャップがあったが、その腕前がプロ級なことにも、相当驚かされた。  加えて、初めて見る寝顔。    このシェアハウスが、大夢にとって、如何に居心地が良く、安心出来る場所なのかが、今日一日で改めて良くわかった。  そんな家に、身を寄せることが出来て、本当に幸運だったと実感する。    死神の鼻先を、ちょんと突付くと、死神は身じろぎをした。  悪戯に成功したみたいに、月霞はひとり微笑みを浮かべる。  もっと、自分の知らない大夢の一面を知りたい。  きっと、それは月霞の想像を超えたギャップを伴っているだろう。  大夢にどんな隠された別の顔があるのか。  それを知りたくて、月霞の胸はざわめき出した。 「風邪、引いちゃいますよ」  誰も聞いて居ないとわかりながら、月霞はそう囁くと、ハンナが昼寝に使っているブランケットを死神の体に掛けてやった。  『死神』が風邪を引くのかどうかはわからないけれど。  満たされた気持ちになって、月霞はリビングをあとにした。 「クビですか?」  いつものように訪れたネネの工房で、月霞はショックを受けたように、どうにかそうとだけ聞いた。  水晶玉──生物の魂を特殊な布で磨いていたネネが、困ったように眉をハの字にした。 「誤解しないで、月霞さん。  リノから提案されたことなの」 「リノちゃんから……?  私、何か失敗しましたか?」  ネネは緩く首を振る。 「違うのよ、そうじゃないの。  黒の世界に来てから、月霞さんは、大時計の管理しか仕事をしていないでしょう。  この世界には、他にもたくさんの仕事があるわ。  そろそろ別の仕事を経験しても良いんじゃないかって、リノがそう相談して来たのよ」 「そうですか、リノちゃんが……」  以前、月霞の自信のなさは、経験が足りないからではないかとリノは言っていた。  リノなりに、月霞を気遣ってくれた末に出した結論なのだろうことが窺えて、月霞は何だか友達が出来たような、くすぐったさを覚える。 「ところで、話は変わるけれど……」  ネネが妙に歯切れ悪く、そう切り出した。 「月霞さん、あなたが白の世界から来たことを知っている人は、どれくらいかしら?」  ぱちくりと瞬きをすると、月霞は指折り数える。 「ネネさんと大夢さん、ライムちゃん……くらいかな?」  月霞を見て、ネネが小さく頷く。 「そう……」 「あの、それが、何か?」  ネネは、若干迷いを見せながらも、口を開いた。 「あなたが白の世界から来たこと、あまり口外しない方が良いと思うの。  ごく稀ではあるんだけど、黒の世界には白の世界をあまり良く思っていない人が居るから」 「そう、なんですか。  わかりました」  複雑な事情を孕んでいそうな気配を察して、月霞はそれ以上追及せずに素直に頷いた。 「ありがとう。  じゃあ、話を戻すわね。  次に月霞さんに働いて貰う場所は、天体課(てんたいか)よ」 「天体課?  どんな仕事なんですか?」 「どんな、ね……。  自分の目で見て貰うのが一番早いと思うけど、そうね、太陽と月を管理する仕事よ」 「太陽と月を管理する?  太陽と月って、管理出来るものなんですか?」  予想も付かない仕事内容に、月霞は首を傾げる。 「白の世界を支えているのが黒の世界だという説明はしたわよね。  太陽と月が昇るのも沈むのも、黒の世界が、半人前たちが司っているのよ」 「太陽と月も……?」  太陽と月なんて、意識しなくても、勝手に昇り、自然に沈むものだと思っていた月霞は驚きに目を見開く。  しかし、そこまで聞いても、仕事内容が、どんなことをするのかがまるで予測出来ない。 「何事も経験よ、月霞さん。  仕事については、あなたのシェアハウスに居るトーマが説明してくれるわ。トーマはずっと、太陽の昇降を担当しているから」  トーマ──大夢『兄ちゃん』呼びを止めた、あの元気な男の子だ。  そういえば、ハンナの朝食作りを手伝っていた時、朝になってようやく帰って来る半人前たちが居ることを思い出す。  彼らは太陽と月の管理をしていたのだ。 「……わかりました。  私が何処まで役に立つかわからないけど、挑戦してみます」  月霞の言葉に、ネネは「前にも言ったけど、無理はしないことよ」と苦笑した。  白の世界への帰還方法が、まだ探れていない、と変わり映えのしない報告をネネから受けて、月霞は工房をあとにした。  シェアハウスに帰ると、待ちわびていたトーマが、早速時計を差し出して来た。  丸い、月霞にも馴染みのあるフォルムの目覚まし時計だった。  ただひとつ、違ったのは、大時計と同じように、文字盤の数字の位置に『─』と短い横線が刻まれていることだ。  黒の世界には数字という概念が無いのかも知れないと、初めて月霞は思い至った。  それでも、長針と短針があれば、時間を知るのに苦労はしない。 「これ、目覚ましセットしてあるから。  この仕事の先輩は俺だから、先輩の言うことをよーく聞くように、わかった?月霞ちゃん!」  ふんぞり返って何やら威圧して来るトーマに軽く苦笑しながら、「はい、先輩」と月霞は答える。 「良く出来ました!」  相変わらず上から目線で言い放つと、「ハンナ、お腹空いたよー!」とダイニングに駆け出して行ってしまう。  月霞とトーマの遣り取りを見ていたハンナも、やはり苦笑を浮かべていた。 「はいはい、お夕飯にしましょうね。  月霞ちゃん、明日は朝早い仕事だから、早く寝るんだよ」  時計を手に立ち尽くす月霞に、ハンナがそう声を掛けて来る。  そういえば、トーマや数人の半人前は、寝る時間が早い。  暫く、大夢とのお茶はお預けだな、と、心の何処かで、月霞は寂しさを感じていた。  眠りに落ちていた月霞は、耳障りな雑音で睡眠を阻害された。  それが、トーマから渡された目覚まし時計から発せれているアラームだと、少し経ってから気付く。  甲高く、ガラスを引っ掻くような、本能的な嫌悪感を呼び起こす音だった。  時刻を確認すると、午前四時だった。  カーテン越しの外は、まだ真っ暗だ。  当然か。  自分が今から太陽を昇らせるのだから。  眠い目を擦りながら、何とか起き上がって、部屋の電灯を点け、半人前の衣装に着替える。  姿見に映る自分の目は寝足りずに腫れぼったくて、肩より少し伸ばした髪をポニーテールに結びながら、自分の顔の酷さに思わず笑ってしまう。 「よしっ」  ぱん、と両頬を両手で叩いて無理矢理、夢の世界から意識を引き戻すと、月霞は顔を洗うため部屋を出て、階段を足音を忍ばせて降りた。  キッチンにハンナの姿はなかった。  まだ眠っているのだろう。  玄関に着くと、既にトーマを含む五人の半人前たちが月霞を待ちわびていた。 「遅いよ、月霞ちゃん」  トーマが、五人の半人前たちを代表して口を尖らせる。 「ご、ごめんね。  こんなに早いとは思わなくて……」  月霞が慌てて靴を履いていると、痺れを切らしたようにトーマが「全然早くないよ。月霞ちゃんのせいで太陽が遅れたらどうするの」と厳しい口調で叱咤しながらドアを開け、外へ出て行く。 「う……本当にごめんなさい」  トーマは、いつものお調子者とは思えないほど、険しい顔をしている。  仕事に誇りを持つ職人のようだ。  暗い街を、靴音を響かせながら歩く。  カラフルな街並みは一転、闇に沈んで輪郭を曖昧にし、ひとけのない物音ひとつしない見慣れたはずの街は不気味ですらあった。  そこの角から幽霊が出て来そうだな、とか、振り向いたら人食いの怪物が出て来たらどうしよう、などと月霞の小学生レベルの妄想は頭の中で発展して行く。 「トーマくん、何処へ行くの?」  恐ろしい妄想に耐え切れなくなった月霞が、先頭を歩くトーマに話し掛けると、トーマは人差し指で前方を指し示した。 「あそこの上」  街灯にぼんやりと照らされた先、トーマが示したのは、小高い丘、というよりは、ちょっとした山登りという言葉の方がぴったりなこんもりと盛り上がった山だった。 「まさか、あそこを登るの?」  月霞が恐る恐る聞くと、何でもないことのようにトーマは無慈悲に頷いた。  昼間、「ああ、山があるんだな」と何気なく眺めていた場所に、今から行くことになるなんて。  体を見下ろす。  雪山へ行くわけではないが、こんな軽装で山登りをするのかと、月霞の心とやる気は早くも削がれて来ていた。  部屋に引きこもっていたせいで、暫く運動らしい運動はしていないし、大夢は今の月霞は魂だけの存在だと言ってはいたが、労働をすれば疲れるし、それは白の世界に居た頃と変わらない。  月霞ににわかに不安が立ち込める。  果たして、あの山を踏破して、仕事をこなすことは出来るのだろうか。  元気一杯にはしゃぎながら先を行く半人前たちを見ながら、月霞は自身の運動不足を呪った。  不安は的中した。  やはり、目的地は小高い丘なんかじゃなくて、山だった。  住宅街をひたすら進むと、やがて家の数は減って行き、ぽつりぽつりと住んでいる人が居るのかも不明な家屋が現れ、それも過ぎると、街灯も乏しく、畑のような空き地も増えて来た。  周囲には林さながらの木々の海が広がり始める。  山へ入り、舗装されていない獣道を、生い茂った木々を避けながらぬかるむ地面に足を取られないよう、踏ん張りながら進むことおよそ一時間。  月霞の両脚は棒にでもなったかのように一歩踏み出す度に軋んで限界を訴えて来る。  自分の意思では、もはや動かなくなった足取りは重く、呼吸もままならなかった。  喘ぐような息遣いで半人前たちに食らいついて行くが、「月霞ちゃん、遅いよ、早く!」とトーマは容赦がない。  体中に疲れを溜めて、ようやく開けた地に辿り着いた。  頂上に到着したらしい。  ほっと息を吐いて辺りを見回すと、そこには既に大勢の半人前たちの姿があった。    そして、待ち受けていた光景に絶句した。  街灯の灯りさえ届かない暗闇に目が慣れて来たのか、月霞が目視した『それ』は迫力を持って迫って来るようだった。  山の頂上に鎮座する『それ』は、どう見ても、ランタンだった。  キャンプなんかでお馴染みの、『あれ』である。  しかし、その大きさといったら、比較対象がないほどに巨大だった。  幅と奥行きが一メートルはありそうだった。  重量は、想像もつかない。  ランタンの中では、真っ赤な炎が燃え盛っている。  近付いただけで火傷してしまいそうだ。  ランタンだから、透明な覆いに囲まれてはいるのだけど。  ランタンの持ち手には、頑丈そうな鎖が何重にも巻き付いていて、ランタン自体は地上で二本のポールに固定されている。  ポールは、旗を掲揚する時に目にするものに似ており、並んだ二本のポールは、天高くそびえ立っていた。 「ずいぶん遅かったな、トーマ。  月の回収作業はとっくに終わっているぞ」    トーマの知り合いらしき半人前の男の子が、そう声を掛けて来た。 「うるさいな、新人が居たんだから仕方ないだろ」  トーマは不機嫌全開で半人前を突き放す。  二人の刺々しい空気を作ってしまった張本人である月霞は、申し訳なさに項垂れるばかりだ。 「よし、仕事に取り掛かろう」  トーマの声を合図に、五十人近い半人前たちが「おー!」と雄叫びを上げる。  早速彼らは、ランタンに駆け寄り、綱引きのように、持ち手から伸びた鎖をそれぞれ握り込む。  体力の限界で地面にしゃがみ込んでいた月霞は、根本的な疑問をトーマにぶつけた。 「トーマくん、まさか、太陽って、これ?」  ランタンを指差し、息も絶え絶えに言うと、半人前たちに指示をしていたトーマが、何を今更、という表情をして見せた。 「当たり前でしょ。  これが太陽で、あっちにあるのが月。  月霞ちゃん、そんなことも知らないの?  僕より年上だよね?」  トーマは、ランタンを指差しながら答える。  月霞は目を疑う。  白の世界の常識は、この黒の世界では通用しないのだ。     月霞が知っている太陽は恒星で、月は衛星で、という学校で学んだ知識は、全く間違っていた。  太陽も月も、黒の世界で半人前たちの手で昇降されているランタンのことだったのだ。  白の世界の人間は、黒の世界の存在を知らない。  『世界の真実』を知らない。  炎が燃え盛るランタンの向こうに、同じサイズのランタンが、もうひとつあった。  炎の代わりに、豆電球を何十倍にも巨大化させたような柔らかくも目を刺す強烈な光りが灯っていた。  あれが、夜を照らす『月』なのだろう。 「あれが月……。  どうして白の世界では、月が欠けて見えるの?」  月霞の台詞に、トーマが怪訝そうな顔になって吐き捨てる。 「知らないよ。  白の世界じゃそう見えるんだろ。  ……って言うか、月霞ちゃん、どうして白の世界のこと知ってるの?」  言ってしまってから、月霞は失言に気付いて、あたふたと取り繕う。 「あ、いや、知ってるっていうか、その、噂を大夢さんだったかな、うん、そう、大夢さんから聞いたのかもしれないし、そうじゃないかもしれないし……」 「ふうん?」  しどろもどろの月霞に構わずに、トーマが言った。 「ほら、月霞ちゃん」  革の手袋を渡して来る。  それを着けて、鎖を引く作業に参加しろ、ということだろう。  月霞が綱引きの最後尾に回り、鎖を手に取ると、『せーの!』と半人前たちが声を合わせ、力一杯、鎖を引っ張る。  ぎぎ、と鎖が軋んで、旗を掲揚するように、ランタンがポールをわずかに上昇して行く。  二本のポールに固定されたランタンは、ポールに沿って、徐々に、本当に徐々に上空に昇って行く。  すると、漆黒に塗り潰されていた夜の空に、炎の橙色が映り、空が色付いて行く。  『せーの!』という半人前たちの決死の掛け声が木霊する。  月霞も、全身全霊、力を込めて鎖を引っ張る。  革の手袋をしているというのに、鎖が手の平に食い込み、すぐに痛みが伝わって来る。  重い。とにかく重い。  鎖を引いても引いても、ランタンは頂上までは上がらない。  だんだん頭がぼうっとしてきて、血の気が引いて行くような感覚に陥る。  本当に、ランタンは頂上に昇るのかと、疑問に思いながら、ふと目を空へ送ると、空に、橙色がグラデーションの帯を広げていた。  朝焼けだ。  月霞の視線が空に釘付けになる。  その間も、『せーの!』の掛け声と綱引きは続く。  果てのない作業は、一時間ほど続いたあと、唐突に終わりを迎えた。  ポールの一番上にランタンが到達し、半人前たちがすぐさま固定作業に入る。  そして、完全に夜明けが訪れた。  日の出を、山の頂上から見届けた月霞は、眩く輝く太陽に照らされた遠くに見える街並みに目を細めた。  朝焼けと夕焼けは、半人前たちが、ランタンを掲揚するために格闘している時間なのだ。 「綺麗……」  影の存在すら許さない、強烈な朝陽を前に、月霞は思わず呟く。  スマホがあれば撮影出来るのに。  そう思ったが、自分がもたらした朝陽を、目に焼き付けることにした。  夜が明けて欲しいと願う人にも、朝が来て欲しくないと祈る人にも、平等に夜明けは訪れる。  それはそれは容赦なく。  非情なくらいに。  半人前たちの、誰に知られることのない仕事によって。  体のあちこちは痛むけれど、達成感はあった。  充足感があった。  うーんと、月霞は伸びをして、少しだけ微笑んだ。
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