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1.ある運命の番が引き起こしたひとつの契約結婚
大学の講義が終わり、椅子に掛けたまま大きく伸びをした。他の学生と一緒に席を並べて受けるほうが好きだったけど、今はとても大学には行けない。自宅からパソコンで出席させてもらえて、単位を落とさないで済むだけありがたいとしなきゃ。
落ち込む気分をどうにか持ち上げつつ、何か飲もうと台所へ向かう。途中で、玄関に見慣れない立派な紳士物の革靴があることに気付く。誰だろ? また潮関連の来客かな……。元々おれたちが住んでいた家には、今は近付くことすらできない。仮住まいは公団に毛が生えたようなマンションだから、台所に行くにはリビングから丸見えだ。深く息をつき、ぺこりと頭を下げながらドアを開けると、父がチラッとおれを振り返った。
「ああ、歩。……槇村さん、こちらが息子です」
「なるほど」
リビングでは、見るからに高級そうな仕立てのネイビーのスーツとネクタイを身に着けた男性と両親が向かい合い、かしこまっている。男は、質草を値踏みするように全く感情のこもらない表情で俺を横柄に見、頷いた。
……そうか、槇村って、潮の運命の番……音也さんの、元婚約者か! 確か、業界大手の槇村製薬の御曹司だったはずだ。この家に全く縁のなさそうなエリートビジネスマンがここにいる理由が、ようやく理解できた。さり気なく彼の姿をチェックする。目は切れ長で、唇は薄い。額は秀でていて鼻筋も通っていて、涼しげな美男子と言っていいだろう。この男はアルファだ。おれはオメガだからフェロモンで分かる。と言っても、普通は性的魅力を感じるはずだが、彼には威圧感しかない。
……とは言え、こんなに家柄もよくイケメンでも、婚約者を別の男に獲られたんだから、世の中は分からないものだ。
おれの弟・潮は、アルファとオメガの出会い系クラブで、槇村さんと婚約していた音也さんと出会った。運命の番だったらしい二人は、その夜、非業の死を遂げた。音也さんは、自宅ベランダからの転落。その傍らにいた潮は、「念のために」と事情聴取で行った警察で、自死した。
おれは冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぎながら聞くとはなしにリビングの会話に耳を傾けた。
「音也さんの件は、まことに申し訳ありませんでした」
両親は、深々と頭を下げる。
「……いえ。音也は事故死ですから。そちらも潮さんを亡くされてご愁傷様でした」
あまり心がこもってなさそうな、口先っぽいお悔やみが気にはなったが、両親は微妙な表情で再び頭を下げる。結果として、潮が槇村さんから婚約者だった人を奪ってしまったのは事実だから。
「それで、本日のご用件と言うのは」
おずおずと口火を切る父に、話は早いと言わんばかりに男は顎をしゃくる。
「音也の実家……水島家から慰謝料を請求されているそうですね」
「さすがお耳が早い。その通りです」
「まことに不躾かと存じますが、お宅では容易に払える額ではないのでは?」
「……や、それは」
絶句する両親を前に、眉一つ動かさず畳みかけて来る。
「私どもで肩代わりと言いますか、立て替えさせていただけないかと思いまして」
「と、仰いますと」
「槇村家の嫁……私の妻として、歩さんをいただきたい」
口をパクパクして動転している父に代わり、母がすかさず割って入った。
「要は、借金の形として歩を差し出せということですね」
「さすがにそこまで露骨では。結婚は両人の合意に基づくべきものですから。ただ、妻となる人の実家に負債があった場合、こちらに余力があれば援助するのは当然のことですよね? たまたま話の順番がちょっと違うだけです」
上品な所作で湯呑みを持ち上げお茶を一口含み、彼はなおも話を続ける。
「音也は別に潮さんに殺されたわけではない。ただ、彼との出会いがなければ、ベランダづたいで地面に降りようだなんて無茶はしなかったでしょう。それに、音也と私は子どもの頃から家族ぐるみの付き合いでした。婚約者がある身で、親に紹介もない男と何をする気だったのかと、家族は大変困惑しています」
一番痛いところを突かれた。
「槇村さんのご婚約者を奪ってしまったこと、改めてお詫び申し上げます。にもかかわらず我々を援助しようというのは、どのようなお考えからですか?」
おずおずと尋ねた父に対し、間髪入れずに涼しい顔で返す。
「ご存じかもしれませんが、槇村製薬は血族経営なので後継者が必要です。……でも最愛の婚約者を失った今、私に新たな見合いや恋愛する気力はない。だから政略結婚みたいなものだとお考え下さい。三十路を迎えた私は早急に妻が欲しい。おたくは早急に多額のお金を必要としている」
金とおれを引き換えにって……、十分露骨じゃねえかよ。両親をチラッと眺めると、二人も呆気にとられていたらしく数秒の間を置いた。母が食い下がる。
「……犬や猫の子だって、お譲りする相手は時間を掛けて吟味するでしょう。この場ですぐ決められるものでは」
「仰る通りです。この場で決めてくれなどと無茶を言う気は毛頭ございません。宜しければ選択肢の一つとして、ぜひご家族でお話し合いのうえ、ご検討ください」
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