2.最愛の弟の死

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2.最愛の弟の死

 話は済んだとばかりに男は一礼して立ち上がった。慌てて両親が見送りに席を立つが、おれはあまりの言いぶりに頭にきて、見送りする気は起きない。奴も、おれを嫁になどと言った割に、最初に一目(ひとめ)無感情に眺めた後はチラリとも視線を送ってすら来ない。笑顔すら見せない。そんな男と結婚する気になると思うか⁉ おれの気持ちが伝わったのだろう、両親も俺を強制しようとはしなかった。 「何あれ! 面の皮厚すぎだろ……ボンボンが考えることはマジ意味分かんねえ」  憤りながら首を振ると、父は真顔で返してくる。 「いや、槇村さんはとんでもない切れ者だ。優秀な営業マンほど、顧客を追い詰めないものだからね」 「そうなの? 優秀な営業マンは、ガツガツしないの?」  意外に感じて聞き返すと、町工場(こうば)みたいな中小メーカーで長年営業をしている父は頷いた。 「提案内容に自信があるから、顧客もよく考えれば納得して買ってくれるって確信してる。……もしくは、顧客側に断れない理由があることを熟知してるって感じかな」 「ふーん……、もしかして水島さんちへの慰謝料って、払うの大変な感じなの?」  奴の提案にうなだれていた両親の姿を思い出して聞くと、二人は弾かれたように顔をあげて、声を揃えた。 「そんなことあるわけじゃないでしょう! 子どもが心配する話じゃないわよ」 「父さんと母さんに任せなさい」  次の瞬間、派手な音を立ててリビングの窓ガラスが割れた。野球ボールみたいなものが飛び込んできたのだ。投げた相手を確認しようと、カーテンを開けようとすると止められた。投げ込まれたボールには『人殺し』と書いてある。俺たちは言葉を失ってうなだれた。窓ガラスが悪意で割られるのは、もう何回目だろうか。考えることにも疲れてしまった。 *  おれには、潮という年子の弟がいた。おれは百六十八センチと小柄なオメガで運動も苦手だけど、アルファの潮は背が高くて体育祭ではヒーローだった。筋肉質で、顔立ちも男らしく太い眉に大きな口で、どことなく狼を思わせる潮に対し、おれは手足も胴も細くて睫毛が濃くて大きな目だし、髪も薄茶色だから子鹿みたいと言われる。  あの日おれが帰宅したら、彼は入れ替わりに出掛けるところだった。M1ジャケットとデニムという、さり気ないけれど彼の男らしい魅力を引き立てる服装に、これはデートか出会いを目的とした飲み会だなと推察した。 「ただいま。潮、お出掛け?」 「兄ちゃんお帰り。うん、友達の兄貴がクラブ開いたんだよ」 「そっか。ふふふ、あんまり羽目外しすぎるなよ?」  いたずらっぽく言ってやったら、ウインクを返してきた。スニーカーで軽やかに家を出ていく彼の後ろ姿を見送る。  ……まさか、これが双子みたいに育ってきた可愛い弟の生きている姿を見る最後になるとは思いもしなかったんだ。  割れた窓ガラスを片付け、とりあえずプチプチシートと養生テープで穴をふさぎ終わったタイミングで、犯罪加害者家族を支援する団体の人が来てくれた。彼らは、マンションの周辺や、うちのドアに貼り付けてあった中傷ビラも剥がしてきてくれた。両親とおれは居たたまれない気持ちだった。 「(ふく)()さんは立場が違いますが、加害者家族と同じようなご苦労に遭われているように見えます」  代表だと名乗った女性は神妙にそう言った後、チラッと視線を一瞬だけ窓ガラスに向けた。 「……物を投げつけられたり、先ほどのようなビラを撒かれたりというのは典型的な事例です。もし私たちがお役に立てることがあればお手伝いさせてください」  両親は曖昧な表情だ。戸惑いはあったが、ぽつりぽつりとこれまで受けた赤の他人からの誹謗中傷と、亡くなった音也さんのご遺族からの慰謝料の話を打ち明けた。 「大変不躾なことをお聞きします。歩さんは来春……半年後には就職活動で、現在、交際や婚約されているかたはいらっしゃらないんですね?」  念を押されると恥ずかしいが、おれは頬を軽く染めながら小さく頷く。すると彼らの表情はみるみる曇る。彼らが帰った後、置いて行ってくれた資料を見て暗澹(あんたん)とした気持ちになった。加害者の身内であるという理由で婚約や縁談が破談になることが四割、職を失ったり内定を取り消されることが四割あるというデータが載っていた。おれの未来、一体どうなっちゃうんだろう……?  全てはあの夜一晩で起こったことだ。おれの弟・潮がクラブで運命の番、水島音也さんに出会い、その音也さんは自宅ベランダから転落死してしまった。その傍らには潮がいて、取り乱した様子で音也さんの名前を呼んで彼に縋りついていたらしい。その大声に何事かと出てきた水島家の人たちは、倒れている息子と、(かたわ)らの見知らぬ若い男に驚いて警察と救急に連絡を入れたものの、既に音也さんはこと切れていた。  おれたち家族は、潮は純粋に運命の番との愛を貫くため駆け落ちでもしようとしていたんだと信じている。逃避行の途中で、たまたま足を滑らせたんだって。
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