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5.感じの悪い求婚者
就職できるかどうかと別にもう一つの気がかりは慰謝料だった。
「おれが給料から慰謝料支払いにお金出すよ」って言おうと思っていたけれど、そもそも幾らなんだろうと。
犯罪加害者家族支援団体の人がくれた資料には、殺人事件の場合は四千万円くらいが相場だと書いてあった。おれの給料はだんだん増えていくとは思いたいけど、具体的に各社の公開している新卒給与額を見て、リアル度が上がった。税金や保険、年金が差っ引かれるし、洋服代とか多少は経費が掛かるだろうから、それを差し引いた額を払うとしたら仮に平均の四千万円だったとしても相当長い年月がかかりそうだ。
おれは思い切って槇村製薬を訪ねることにした。
や、別にあの男の嫁になるって決めたわけじゃないからねっ! ただ慰謝料が実際幾らなのかとか知りたいだけだし!
槇村製薬の総合受付に辿り着いた瞬間に回れ右して帰りたい衝動にかられた。本社ビルは何十階建てもありそうだし、都心の一等地にあるし、受付も立派だ。受付嬢も何人もいる。
「あの……。アポイントはないんですが、専務の槇村 和泉さんにお目にかかりたいんです。僕は福多 歩、福が多いと書いて福多です。名前を言っていただければ、和泉さんは何のご用か分かってくださると思うので」
受付嬢の中でも一番優しそうな人に話しながら、たぶんおれの頬は赤くなっていたと思う。質素な私服に身を包んだ若い男で、アポなしで専務に会いたいなんて怪しすぎるだろうと自分でも思ったから。ダークスーツの大人の男女で埋められるロビーで、くすんだピンクのTシャツとブルーデニムのおれは、明らかに場違いだ。
でも槇村製薬の受付嬢はさすがだ。よく躾けられているのだろう、全く変な顔をせず、にっこりと微笑んだ。
「かしこまりました、確認いたします。ソファに掛けて少しお待ちください」
応接室に通され十分も経たないうちに、槇村和泉が現れた。ネイビーのスリーピースにネイビーの小さい水玉のネクタイをしている。このままパーティーにでも行くのかという優美ないでたちだ。不本意ではあったが年長者だし腰を上げて頭を下げる。
「ああ、座って良い。次回以降は秘書を通してアポを取れ。今日はたまたま前の会議が早く終わったから来れたが。……用件は何だ」
小ばかにされたようで、ムッとした。
「先日のお話に返事する前に、僕らの場合、色々詰めるべき条件があると思うんです。僕に守らせたい条件とか契約的なものがあるんじゃないですか? 両親は『大丈夫だから』って、慰謝料の額も教えてくれないんです。でも簡単に払えない額なんですよね? おれに何を期待してるんですか?」
彼は秘書に手を差し出した。指が長くて汚れひとつない手をしている。書類を受け取る彼の横顔を観察した。顔立ちがすっきりしているだけでなく、無表情だから冷たく感じるのかもしれない。
「慰謝料は一億円だ。水島家の逸失利益を考えると要求が過剰とは言えない。……契約書は一般的な婚前契約とほぼ同一だと思ってくれて良い。結婚前に俺個人が所有していた財産は、仮に離婚する場合も分与の対象には含まないとか」
一般的な、と言われても。結婚前に離婚する場合の条件を契約書で取り決めるなんて、アメリカのセレブかよ。俺はドン引きした。和泉から手渡された契約書は、かなり厚さがあるけど、印刷されている文字がものすごく小さい。
「二度手間で申し訳ないんですけど、字を数ポイント大きくして印刷してもらえませんか? これじゃ読みづらいです。それと、これだけたくさん条件があるので、お返事は後日します。持ち帰らせてください」
俺がはっきり答えると、彼は軽く目を瞠った。無言で目配せすると、秘書さんは早足で出て行った。すぐに印刷し直して持って来るつもりなのだろう。
「第一関門は突破かな。契約条件を読みもせずにサインするそぶりを見せたら即破談にしようと思っていた。そんな嫁じゃ、危なっかしくて槇村家を任せられないからな」
うっわ、むかつくー……。感じ悪っ。ムッとしたのが伝わったのか、さらにからかうように嫌味を放り込んで来る。
「薬学部だそうだな。製薬会社の初任給や生涯賃金くらいは把握してるか? 『自分が返す』などと格好つけるのは構わないが、人生を棒に振る覚悟が要ることは簡単な計算で分かるはずだ。その割には来るのが遅いと思ってた」
「……調べました。ああいう事件を起こして、自宅にすら住めない僕の就活がどんなものか、あなたのほうが良くご存じじゃないですか?」
「へえ、もう何か始めているのか? OB訪問とか? 本格的な就活は来年だろ?」
「だから、始めてるって言ってるじゃないですか。……何十人ってOB・OGに連絡しましたけど、殆ど会ってもらえなくて」
彼は薄っすら笑み、どことなく楽しげな雰囲気すらある。
「ふーん。まぁ、なかなか苦労するだろうな」
そんなん言われなくたって実感してるっつーの。内心苛々したが、無言で俯いて表情を隠した。
とにかく、将来番になるかもしれない求婚者・槇村和泉に対するおれの第一印象・第二印象は、これ以上ないくらい最悪だった。
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