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6.それでも結婚を決意
もらった契約書を一般教養の時に買ったコンパクト六法と首っ引きで父さんと一緒に読み解いた。なにせおれの人生が掛かってるんだから必死だ。無料法律相談にも予約して行ってみた。
「おおむね公平な内容だとは思います。気になるのは、お子さんが生まれた後に離婚する場合、親権は父方だと予め明記されていることと、妻……福多さんが不貞した場合は即離婚で、立て替えた慰謝料は全額返金という厳しい条件ということです。お子さんができなかった場合も離婚というのも、やや非人道的です」
それはおれも感じていた。だが、慰謝料の額を聞いて戦慄が走ったのも事実だ。おれが貰える給料の額では、ほぼ会社員人生全部を費やすことになりかねないという槇村和泉の言葉も、就職課で調べた情報通りだった。
このままでは責任感の強い父さんが生命保険を目当てに首でも吊りかねない。過去、複数の犠牲者を出した重大な殺人事件加害者の父親が自殺したことは、おれも知っていた。せめて慰謝料を払えば。多少なりとも世間の風当たりも和らぐのではないかとも思っていたことも否めない。
庭の置物でも眺めるようだったおれへの眼差しが気にならないと言えば嘘になるが、おれは槇村和泉に嫁ぐと決意した。
両親は案の定猛反対したが、おれは自分を曲げなかった。
「一億もの賠償金、おれも払うよ。……だけど、おれの生涯賃金の半分とか行くわけでしょ? そしたらおれ、結婚できないと思うんだよ。だから、どうせ結婚できないならあいつでも良いじゃん。まあイケメンだし金持ってるし、こっちの事情も分かってるし。一緒にいればそのうち情も湧いてくるんじゃない?」
「歩より九歳も年上だし、家柄が違いすぎる結婚は苦労するのよ? 普通は」
「へえ。じゃあ三十二歳。意外と若いんだね。秘書を顎で使って偉そうだから、もっと行ってるかと思ってた」
呑気そうに振る舞うおれの真意を汲み取った両親は、涙目でおれを見つめる。
「歩……。潮のしたことの代償を払うために、お前の人生を売るようなことを父さん母さんはしたくないんだ」
「そう言ってくれてありがとう。……でも、そうしなきゃ父さん母さんの人生が終わるわけじゃん? こっちは結婚相手があいつに決まるだけだし」
両親は、おれを『売る』と抵抗を示していたが、「あくまで結婚相手が払ってくれるだけだ」と強く説得することで、どうにか了承してもらった。こうして家族とも握ったうえで、秘書さんに連絡して槇村和泉のアポを取った。
「基本的にあの内容で契約はお受けします。……ですが一点だけ変えて欲しいです」
役員応接で当然のように上座についている彼は一瞬口をへの字に曲げた。
「何を変えたいんだ。言ってみろ」
ついた肘に顎を乗せ、長い脚を組み、いかにも不満げな表情だ。
「もし子どもができた後に離婚することになった場合の親権は、別途協議する。という条件にして欲しいです」
「……俺は長男だ。跡継ぎのための結婚だって、契約書を見れば分かるはずだが?」
「でも、おれの子でもあります。槇村家に置いて行くほうが幸せだと思えなかったら連れて行ける余地を残しておきたいんです」
跡継ぎが欲しいから嫁を取るんだから、嫁は出て行ってもいいが跡継ぎは置いて行けという彼の要望は分かる。だけど、おれも親として不幸そうな状況だと分かっていたら子どもを置いて行くことはできない。ここは絶対譲れない。おれの意思が固いことが伝わったのか、大げさな溜め息をついた後、彼は肩を竦めた。
「ふん。まあいい。離婚は手間も金もかかる。お前が不倫でもしない限り、こちらからするつもりはない。それに槇村家で育てたほうが幸せなことは誰が見ても明らかだから、『別途協議』と契約書にあっても結論は一緒だ。……いいだろう。そこまで考えてきたことに敬意を表して、その変更は受けよう」
すぐさま応接室を飛び出て行った秘書さんが、契約書を修正して持って来てくれた。
「え、えっと、署名とか捺印は」
俺が肩掛けカバンから印鑑を出そうとすると、その必要はないと手で制止された。
「うちの顧問弁護士同席のうえで正式に契約締結するから、日程は連絡する。……じゃあ、婚約者殿をご自宅まで無事に送り届けるようにな」
前回とは打って変わって、帰り道の心配までしてくれる。これが婚約者かどうかの差か。その態度の豹変ぶりに唖然としたが、送りの車というのが黒塗りの槇村和泉専用車だったことに再び目を剥いた。
そこからは目まぐるしい日々だった。秘書さんから速攻で契約締結の日時の連絡があった。三度目ともなるとロビーには既に秘書さんが待ってくれていて、受付を通ることすらなく、顔パスで役員応接直行だった。受付嬢たちもしたり顔だ。かくかくしかじかの条件で婚約するって契約書にサインしたけど、奴は安定の鉄面皮だった。商談の成約だって、もうちょっと嬉しそうな顔するもんじゃないのか? まあ、こいつはそういうキャラじゃないか……。
正式に婚約したので、家風やしきたりに慣れるため、という名目で結婚に先立ち、槇村家に花嫁修業に入ることになった。おれは、弁護士に法律相談に行った時に受けたアドバイスを胸に刻んでいた。
あの契約書には、槇村和泉の方から婚約破棄した場合、金を返せとは書いていない。すなわち、あいつに「結婚したくない」と言わせたらおれの勝ちだ。
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