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7.花嫁修業初日から暗雲が立ち込める
正式に婚約が成立し、槇村家へ花嫁修業に入る日。あいつから婚約解消しようと言わせてみせる! と闘志に燃える俺を迎えに来たのは……執事さんと運転手さんだけではないか。
婚約者を実家に迎え入れるというのに、肝心の本人が来ていないことに、両親の表情がみるみる曇る。おれは必死に二人を宥めた。
「や、あれだよ、和泉さんはお仕事忙しいからさ。五分の時間を取るのも大変なんだってよ? 秘書さんもいつも大変そうだしー」
内心は、なんでこんな日にお前が来ないんだよと腸が煮えくり返る思いだったが、表面上はおちゃらけた風でごまかした。五十代後半と思しき執事さんも、首を引っ込めて恐縮している。
「歩さま、恐れ入ります。大事な日ですので、ご自宅のほうには間もなく帰ってきていただけるとのことです」
両親は不安げだったが、手分けして荷物を車に積んだ。……と言っても、当座の身の回りのものだけだから、段ボール数個とボストンバック一つだけど。
「歩のことを、どうぞよろしくお願いします。若くて言葉遣いや礼儀は至らないところはあると思いますが、気立てはいい子です」
「はい。大事なご令息様をお預かりいたします。和泉さまにもご両親からのお言葉として確かに申し伝えさせていただきます」
深々と頭を下げ合う両親と執事さんを眺め、ああ、本当は婚約者本人に直接言いたかっただろうな……、と、おれは切なく思った。
車が動き始め、執事さんが槇村製薬の秘書さんにスマホで電話をかけた。
「いま、歩さまを車にお乗せして槇村家へ向かっております。和泉さまは何時頃お戻りですか? ……えっ! そうですか。いや、それは仕方ございません。歩さまには私からご説明します」
何やら雲行きが怪しそうだ。電話を切った執事さんは、申し訳なさそうに上目遣いで俺を見る。
「和泉さまのご帰宅予定ですが、創薬に使っているソフトウェアの不具合が出ているそうで、何時というお約束は難しいとのことです」
「ああ、和泉さん専務取締役なだけでなく、開発本部長ですもんね?」
大学でもトラブルが発生したことがあるけど、回復まで何時間もかかったし、その間、コンピューターを使う講義はできなかった。創薬の難しい計算にはソフトウェアやコンピューターが欠かせないはずだ。仕事にならないだろう。
執事さんにとっては、おれの冷静さが意外だったようだ。
「歩さま、あの……、お怒りではございませんか?」
「え、だってシステムトラブルなんですもんね? それは仕方ないって言うか。ましてや執事さんの責任じゃないですし」
珍獣でも眺めるようにチラチラと控えめに見ている。……あっ! あれかな? 『婚約者が初めて実家入りするのに彼ぴがいないってどういうこと? ぷんすこ』みたいなリアクションを予想してたのかな。
おれとしては、彼がいないことに腹が立ったのは体面だけだ。親の手前、ちょっとは優しくするそぶりだけでも見せて欲しかった。
なんたって、これから嫌われて「結婚したくない、婚約破棄したい」って言わせなきゃいけないんだからな‼
槇村家は、映画に出て来そうな大豪邸だった。明治創業と聞いていたから、勝手に日本家屋のイメージを持っていたのだが、めちゃくちゃモダン……てか、おれ場違いじゃない……? 口をポカンと開けていると、執事さんがそれとなく玄関へと促してくれた。
「今日は、お客様として表口からお入りください。明日以降はお勝手を。後ほどご案内します」
え、ここ以外にも玄関あんの……? 度肝を抜かれながら玄関を入ると、ぴかぴかに磨き込まれた三和土が待っていた。大理石か……? 俺のぼろいスニーカーここに置くのやだな……。おれの心を読んだとしか思えないエスパーみたいな執事さんが、にっこり微笑みかけてくれる。
「お勝手に下駄箱がございます。ご案内がてら、靴を持って参りましょう」
彼が持ってくれようとするのを固辞し、自分でスニーカーを持った。下駄箱はシュークローゼットで、実家の台所と同じくらいの広さがあった。
「お勝手って言っても立派なんですね……」
「お屋敷だけでなく、旦那さまや奥さま、和泉さまが立派でいらっしゃいます。その和泉さまが見初められたのが歩さまです。これから若奥さまになられるんですから、どうぞご遠慮なく私どもをお使いください」
……婚約破棄されるように頑張りますなんて、とても言えねえ……。
おれは曖昧な表情を浮かべたが、執事さんは緊張していると取ってくれたようだ。そっと靴を置き、洗面所や台所、おれの部屋と、一通り案内してくれた。おれの部屋というのがまた、実家の時の倍の広さはあるし、日当たりも眺めもいい。
「こちらは、嫁がれました和泉さまの妹君が使っておられたお部屋です」
スタッフとしては、執事さんのほか、コックさんとメイドさんが一人ずついる。この二人にも紹介してもらったが、彼らの態度は微妙だった。まあ、こんなちんちくりんが若奥さまとか言われてもって感じだよな。分かるよ。おれもそう思うし。あいつもじきに気づくだろ、おれに奥さまが務まるわけないって。
「あ、そうだ。洗濯機ってどこにありますか?」
「洗い物でしたら、出していただければ私がやりますが」
無愛想なメイドさんに、おれはおずおずと打ち明けた。
「おれの持ってる服って古いので、洗ってもらうのは恥ずかしいし、一人でそっと洗いたいんです」
彼女は一瞬押し黙ったが、すぐに恭しく頭を下げた。
「かしこまりました。ではご案内します」
その日は結局日付が変わる頃まで彼が帰宅することはなく、おれは立派な風呂に落ち着かない気持ちで入り、冷や汗でびっしょりになった服を立派な洗濯機で洗って、立派な布団でぐっすり眠った。
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