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すきにして
一
銀行や服屋や食料品スーパーや建設会社のように生業の仕組みがはっきりしている会社と違って商事会社というところは、何が生業になっているのかがよくわからない。逆を言えば何をやってもいいし、儲かれば何にでも手を出す業界だ。世の中に転がっているうまい話に聞き耳をたてあちこちを駆け巡り、情報を集めてビジネスを考える。それが社員の仕事なのだ。
山中雅の勤めるマネッジ商事は札幌にある従業員が七十名ほどの商社である。戦後すぐに創立された会社で、当時の古くさい社風が残っていた。大手の会社には、ペコペコ頭を下げるが、小規模の小売店には、傲慢な態度で応対する典型的な昭和タイプの伝統があったのだ。
会社の内部にあってもその精神は変わらない。上司には媚びへつらい、部下にはつらくあたる。やる気の程はどれほど夜遅くまで残るかで判断され、飲み会での付き合いで昇進が左右されていく。
雅は大学を卒業しこの会社に入って二十年、四十二歳になった。聡明で優しくて社員の受けは悪くない雅だが、ぱっとした成果が未だにない。それはひとえに儲かれば何でもいいという会社の体質にどうしてもなじめないからだ。嫁と子供二人を食べさせていくためというのが働く目的となっているだけだからやる気がまったく出ないのである。昨年ようやく係長に昇進できたのだが同期に比べかなり出世が遅れていた。周りからは崖っぷちと囁かれている。
係には、お局の女性社員二人がついた。根本純と中川ネネである。「でも」と「だって」と「どうせ」を連発し、できる限り仕事をしないでおこうとするので雅と同じく崖っぷちと噂されていた。
二人は札幌の女子大を卒業し、同期で入社して十三年になる。お互い三十路半ば越えたがいまだ独身でいる。世の中的には若くないが平均年齢が五十を越えているこの会社では、若手で十分通用する。純もネネも同じ学年だが留年を食らっている純の方が一つ年上だ。女っ気のない純とおんなおんなしているネネは大学の頃から大の仲良し、いやそれ以上の関係になっていた。
純達がおそろいのイアリングをしていたり、指輪をしていたりしても二人の仲を疑うものはいない。売り上げしか頭の中にない社員達は、崖っぷち社員の動向に目を向ける余裕など全くなかったのである。
正午のベルが鳴る。山中雅は机に置いたパソコンの蓋を閉めた。周りにいる社員はもう隣の食堂に駆けだしていた。ここで後れをとれば食券販売機の行列で待たされ、食べる席もなくなってしまう。昼休みは一時間、昼食後の貴重な睡眠時間がなくってしまう。それは絶対に避けたい。雅もみんなに負けずと駆けだしていた。
残業でいつも遅くまで働いている。おなかが膨れれば条件反射ですぐにまぶたが重くなる。昼休みに睡眠をゲットしておかなくては、夜遅くまで体が持たない。食堂に急ぐのは生きて行くための必要条件だったのである。
一方、根本純と中川ネネは男達のように急がない。少し時間をずらせばいいじゃない。
二十分遅く行けばかなり違うわ。戻ってくる時間が少し遅くなるけど、昼寝なんておじん臭い。どうせ仕事はないのだし定時で帰れるし私達は若いのよ。昼に寝なくても体に堪えることなんてないわと思っている。
十二時二十分を過ぎた。
「ネネ、そろそろ、食堂に行くわよ」
二人は職場の隣にあるプレハブの造りの食堂に向かった。すでに食券販売機前に列はない。二人はいつものように一番安いかけそばを選ぶ。かけそばは安いだけでなくあっという間に出来る。しかもおなかがいっぱいにならないから午後眠くなる心配をしなくていいのだ。純達は出来上がったそばをトレイに載せ座れる席を探した。たまたま誰も座っていないテーブルが一つ空いている。
「あら! やだぁ。阿部課長が前に…… どうしよう」
ネネが後ろを振り向いて純に囁いた。
「ほんと! 仕方ないわね。向こうも気づいたみたいだしもう違う席に出来ないわ」
二人は課長にぺこりと頭を下げて一つ後ろのテーブルで昼飯を食べることにした。
阿部課長のテーブルでは雅が向かい合って座っている。雅はダッシュで食堂に駆け込んだのだが、そこで課長とばったり出くわしたのだ。あっ、ヤバイ! と声がでそうになったが、視線がバッチリ合ってしまった。一人で食べるわけにもいかず課長と同じ席で一緒に食べる羽目になったのだった。
「どうなのよ、売り上げの方、順調に伸びてんの?」
雅が席に着くと課長がラーメンを食べながら尋ねた。
「ええ、まぁ、ぼちぼち……」
「ぼちぼちって、墓場じゃあるまいし、今度の営業会議にちゃんと報告してよ」
かん高い声で課長は雅に気合いを入れるのだが迫力はいまいちだ。
阿部課長は神戸出身で、五十を過ぎたバツイチだ。まだ若いのに頭頂部の髪の毛がかなり寂しい。運動をせず酒ばかり飲んでいるせいかおなかがでっぱり、ワイシャツのボタンがはじけ飛びそうになっている。ただのオヤジに見える課長だが会話の中にオネェ言葉が出てくるせいで、毛はないがそっちの気があると社内で噂がある。バツイチになったのはそのせいだとまるで現場を見たかのように囁かれていた。
「はぁ」
小うるさい課長の小言にそばを食べながら雅は生返事で返す。
「はぁって、あんたぁ、成果が出んかったら今度はわてが栗田部長にどえらく怒られまんねんで」
課長の周りで食事している者は聞き耳をたてているのに聞こえないふりをする。関西弁は、話の内容がわからなくても思わずニヤニヤするほど面白いものがあった。
純達も吹き出さないように黙々とそばを食べていた。
「まぁ、食べているときになぁ、説教ばかりしてもあかんなぁ……」
課長は雅のそばを見て昨日のテレビのクイズ番組を思い出した。
「せやせや、ちょっと聞いてぇ、あんたが食べている南蛮そば、これな、なんで南蛮って言うか知ってるぅ」
仕入れたネタを話し出す。
「この南蛮ですか? えっ、しっ、知ってますが……」
口の中のそばをこぼさないようにもごもごさせて雅が答える。
「えっ、知ってんの!」
てっきり「知らない」と返事が返ってくると思っていた課長が驚いた。
「ネギのことを南蛮って言うんですよね」
「そっ、そうや」
課長は苦虫をかみつぶしたような顔でラーメンをすすり喰う。その様子に純もネネも必死に笑いをこらえた。間を置いて雅は思い出したかのように次の矢を放つ。
「ちなみに、南蛮って、南の方からくる野蛮人ってことで南蛮って言うんですよ」
「えっ、それ、ほんまなん、いやいや……、ほんまなん、やられたなぁ、ハハハ」
追い打ちをかけられ、行き場を失った課長は丼の中に残っていたツユをズルズルと音をたて飲み干した。腹立ち紛れにドンと器を置くと、
「あ~、おなかいっぱい食べたわ」
大声を出してうさをはらす。そしてお返しとばかり、
「このラーメン丼やけどなぁ、なんで渦巻き模様がついているか知らんでしょ」
「えっ、丼の渦巻きですか?」
「そうやこの渦巻きや、これがなんや知らんでしょ」
課長はラーメン丼の縁にある渦巻きを指さし、指をくるくる回す。
「えっ、いや、雷紋って言うらしいですね」
「えっ、しっ、知ってるんかい!」
「はぁ」
「はぁやあらへんわ、ほんま若いのによう知ってるなぁ。けど、さすがにこれはか知らんでしょ、これは」
「水戸黄門ですか?」
課長が問題を出す前に雅が答えてしまった。
「えっ! あんたなぁ、なんなん、いったい……」
「はぁ、すいません。昨日テレビ見てたもんで」
「な、なんや、見てたんかい。そやったら言うてぇな、少しは気を利かせて知らんふりしてんか。それが上司に対するおもてなしって言うもんでしょ。今度からは知らんて言うてや、知らんって! なぁ。最初から知ってるって言うたらあかんえ」
課長は後ろに座っていた純恵達に向かっても吠え続ける。
「だいたいあんたら、ろくな営業成績もあげんと、社内でなんて言われてるか知らんでしょ。崖っぷちって言う噂なんよ。まったく、それをワテが崖から落ちないようにフォローしてあげてるのになによ。わかってんの!」
課長は雅と純達を交互に見ながら叫ぶ。
雅と純は「いつものことだ」とばかり、気にせずそばを食っていたのだが、ネネだけは課長の話に箸を置いて聞いていた。
「いやならもう会社に出て来なくていんだすえ」
課長はネネの方を見て中指を突き立てて怒った。ネネは恥ずかしそうにうつむいたが、純はキッとにらみ返していた。
そのときだ。課長の目が異様に大きくなった。栗田部長がトレイにそばを載せて立っていたからだ。
「いやいやいや、部長、まぁまぁまぁお座りください」
課長は立ち上がり部長に席を譲ろうとする。これ幸いと雅や純達も席を立ちあがる。
「まぁまぁ、君たちもたまには少し話しようや」
全員が逃げようとするのを部長は止めた。
「楽しい昼休みを過ごしているなぁ。僕も仕事ばかりしていないで、君たちのように楽しい話をしていたいよ」
雅の横に部長が座る。
「僕らの話なんか、たわいもない知識を自慢し合ってるだけですよ。たいしたことありませんよ」
課長がもみ手をして部長のご機嫌をとろうと必死だ。
「そんなことはないよ、君たちのような営業職は色んな知識が役に立つもんだよ。僕もねぇ、くだらんことだけど昨日面白い知識を仕入れてね」
「はぁ、なんでしょうか? 聞きたいですぅ」
課長は雅の方を見て「こうするんだと言わんげににんまりとした。
「君、南蛮そばってあるだろ」
昨日のテレビネタを部長が話し出す。
「はぁ」
「なんで南蛮って言うか知ってるか?」
「えっ、いや、知りませんです。はぁ、なんで南蛮って言うんですやろ」
「あれはな、ネギのことだよ。ネギを南蛮って言うんだよ」
「へぇ、そうですかぁ。さすが部長、すごいですねぇ」
「知らなかっただろう」
「はい、ぜんぜん。いや~、勉強になりますぅ」
「そうか、そりゃよかった。ちなみにもう一つ教えてやろう。君が食べていたラーメンだけど、その丼についている模様の渦巻きはなんだか知っているか」
「いやいやいや、ぜんぜん知りませんなぁ」
「それは雷紋って言うんだよ」
「いやぁ、そうなんですか? さすが」
「そうだ。ちなみにラーメンを最初に食ったのは誰だか知っているか」
「いやいや全くわかりません。いったい誰でしょう?」
「水戸黄門なんだよ」
「エッ、そうなんですか、いやぁ、さすが部長、知識のてんこもりですなぁ」
課長のご機嫌取りも度が過ぎた。
「君ねぇ」
声を落として部長が課長をなじりだした。
「は、はい」
「営業課長だろ、君には雑学というものがないのかね。少しくらい営業ネタとしていろいろ話ができないとお客さんの前で困るだろ。笑い声が起きてこないようじゃ、まとまる話もまとまらんぞ!」
「ははぁ…… いやぁ、じ、実は、ほんまは、知ってたんです…… なぁ山中君」
課長は雅の肩をトントンと叩く。
「えっ、そうなんですか?」
「いや、知ってたやん。ほんまに知ってたやん……」
茶色い歯をむき出しにして課長が吠える。
「いや、知りませんけど」
さめた表情の雅は冷静に答えた。
「いやいやいや、あんた、ええかげんにしいや!」
「だって、さっき、知らないと言えって……」
「もういい。課長、いいか、君の営業成績の悪いのはおもしろいネタがないからだ。まずお客さんを和やかにする。そうすればそれが潤滑油となって話がうまく進んでゆくんだ。ビジネスの提案もそうだ。真面目な話ばかりじゃ疲れるんだよ。たとえ無謀で奇抜なアイデアでも面白ければ話は聞きたくなる。そこから新しいビジネスが展開して行くこともあるんだ。そうだ、今度の営業会議のときがいい機会じゃないか、誰も思いつかないようなネタを披露してみんなをびっくりさせてくれんかね。斬新なネタ、度肝を抜くような企画を聞かせてくれ。いいね」
言い終わると部長は、そばをズルズルと音を立てながら食べ始めた。
「はっ、わかりました」
直立不動の姿勢で課長が返事した。
「君達はもういい。一時を回った。仕事に戻りなさい」
部長の言葉で全員は解放されたのだ。自席に戻った課長は沈み込んだままだ。ずっと沈み込んだまま終業のベルが鳴ったのだった。
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