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ピーチ
「おい悠太、飲み足んねぇぞ」
そう言って、課長は白木のカウンターの向こうから、俺の目の前にドンッと生ビールを置いた。
「あっざーっす」
今日は久しぶりに事件もなく定時で上がれた金曜日。
生活安全課の有志とかつての部下が課長に誘われ、ゴールデン街の小料理屋『かづさ』で日頃の疲れを癒していた。
本店でも田無署でもそうだったが、課長は部下の面倒見が良い。家族のように腹を割って付き合い、事件の毒気を浴びてもすぐに救い出せるように部下のメンタルにも気を配ってくれる。
「静馬さん、刺し盛り上がったよ」
「あいよ」
カウンターの中の板場に、ここの大将の加津佐さんと並び、課長はいそいそと働いていた。
本店時代の青白い顔が嘘のように、加津佐さんの隣で美しい笑顔を見せている。なんて無邪気に笑うんだか……。
「あの人が加津佐さんねぇ……すんごく素敵な人じゃん。静ちゃんのあんな可愛い顔、初めて見た」
俺の耳元にそう囁いたのは、本店と田無署時代の大先輩であるオバハン刑事・笹川亜矢子嬢だ。課長とは今でも『亜矢ちゃん』『静ちゃん』と呼び合う仲である。
「しかもさぁ、静ちゃんのフェロモン、ピーチじゃん、ピーチ。あの頃あんな甘々な香りさせてたことなんて、なかったよねぇ」
「そうっすね。田無時代も、お色気ムンムンのムスク系って感じで、毎日部下を悩殺しまくってましたし。加津佐さんのおかげっす」
加津佐さんが、課長の口にあーんとばかりに唐揚げを放り込む。アチアチッとハフハフしながら、課長がグーサインを指で象る。
「あたしら、何見せつけられちゃってんだか」
そこへ、少年係の莉子先輩が割り込んできた。今日は旦那に子供を丸投げで、久々に命の洗濯をするのだそうだ。
「加津佐さんのお披露目目的だよね、私達をここに呼んだのって」
「だよね。でもさ、静ちゃんが幸せそうにしているとホッとする」
「あ、それ俺もっす」
「でしょ。静ちゃん、本店時代は同僚に意地悪されたり邪魔されたりでさぁ。綺麗な顔してても不条理には屈しないし、後輩を守るためならバカ上司や石頭の先輩にも真っ向から楯突いちゃうし……苦しかった筈だよ、あの頃は」
「そうっすよね。あんな顔、俺も記憶にないっす」
俺らが三人でこそこそ話しているのを見つけた課長が、菜箸で俺たちを指した。
「ほら、せっかくの肉じゃがが冷めるぞ。加津佐のはめっちゃ上手いから早く食べろ。あ、悠太、飯いるか? 」
「ああ……胸いっぱいっす」
「ん? 」
「課長のイチャラブぶり見せつけられて、胸がいっぱいなんです」
グッと目を剥いて押し黙った課長が、チロッと加津佐さんを見た。
「だって幸せなんだから、しょうがないじゃん、静馬さん」
隠すつもりが1ミリもない爽やかすぎる発言に、一同が口笛を吹いた。
照れて俯く課長が、包丁で派手に指を切った。加津佐さんが躊躇なくその指を咥えると、伝説の女形が、しなりと首を傾けた。
俺の課長は色っぽい。
だけど、あの人の心の中には沢山の悲しみが詰まって、傷があって……だからこそ、とてつもなく優しくて。
まるで姉貴が幸せを掴んで笑っているかのような錯覚に囚われ、俺も幸せな気持ちになる。
あの人の、行きずりの男の腕の中で流すあんな涙は、二度と見たくない。
「何か俺、酔っ払ってるかもっすけどその……課長のこと、よろしくお願いします」
カウンターで酔いつぶれて突っ伏している課長に上着を掛けて、俺は加津佐さんに頭を下げた。
「こちらこそ。静馬さんはいつも悠太くんを頼りにしてて、僕にも君のことはよく話してくれるんだよ。彼は面と向かって言うタイプじゃないだろうけど……。でもね、悠太くんがいてくれたから、彼はここまで壊れずに生きてこられたんだと思う」
「加津佐さん」
「そのおかげで、僕は静馬さんと出会えた。本当に有難う、悠太くん」
「え、いや、その……」
加津佐さんの優しい低音が心にスッと入り込んできて、酒のせいか、意図せずに涙が流れてきた。
色んな、それこそ今までのグチャグチャな思いを洗い流すように。
「そういう涙、見せられる人を早く見つけなよ」
加津佐さんはそう言って、おしぼりで涙を拭ってくれた。
「はい……すんません、何か」
「可愛いなぁ。静馬さんの部下じゃなかったら、食べちゃってたかも」
サーッと背中に冷や水がかかったように、一気に酔いが覚めた。
「はい? 」
「これだから静馬さんも可愛くてしょうがないんだな、きっと。気をつけてね、ここいら、体育会系の男の子が大好物の狼が沢山出るから」
「いぃ? 」
間抜けな声を出してビビる俺を揶揄うように笑い飛ばし、加津佐さんは結構な力で僕を暖簾の外に追い立てた。
「はいはい帰った帰った。ここからは大人の時間だから、ね」
ウインクをして俺に手を振った加津佐さんは、そのまま引き戸を閉めた。
俺の課長は色っぽいが、課長が愛した人もまた、色っぽかった……。
くっそぅ……早く大人になってやる!
俺の課長 了
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