4人が本棚に入れています
本棚に追加
理美と偶然再会したのは、地元S市に雪が降った夜だった。
お互い何も言葉が出て来ず、数十秒無言で見つめ合った後、とにかく寒いと言うことで、どこか適当な店に入ろうということになった。
昨日まではもう春といってもいい陽気だったのに、今日は身を切るような冷たい風が肌に突き刺さる。
幸いなことに、よく行くカフェが近くに有ったのでとりあえずそこに入った。昼間は喫茶店だが夜になれば酒も飲める。
テーブル席が埋まっていたのでカウンターの端に二人で並んで座った。
「いつもの?」
マスターに訊かれて小さく頷いた後、理美の方を見た。
「君はどうする?」
「お任せするわ」
ベージュのコートを脱ぎながら理美が答える。
「彼女には何か適当なカクテルを作ってあげてくれ」
「承知しました」
店内には程よい音量でクラシック音楽が流れていた。
騒がしく飲む客の居ないこの店の落ち着いた雰囲気が好きで、週に一度は飲みに来る。
「何年ぶりだろう?」
「高校卒業して以来だから、十二年ぶりだね」
「お互い大台に乗っちまったな」
「早いよね、時間が経つのって」
理美は小さく微笑んだ後、ブラウスの胸ポケットからMarlboroメンソールを取り出して口に咥えた。
「煙草、吸うようになったんだ」
「あなたは吸わないの?」
「ああ、ちょっと願掛けしててね。禁煙中なんだ」
おかしなものだ。あの頃、高校生が煙草なんか吸っちゃだめって叱ってくれた理美が今煙草を吸っていて、イキがって学ラン着たまま吸っていた私が今は禁煙中。
理美は煙草を咥えたまま窓の外に目をやり、降りしきる雪を眺めている。
「あの時も降ってたよね、雪」
窓の外を眺めたまま里見が呟く。
「そういえば降ってたな」
わざとそっけなく答えた。
あの雪は今でも鮮明に覚えている。
潤んだ目で私を見ていた理美、その理美の睫毛の上に積もっていく雪。
なぜ別れてしまったんだろう?
理由はもう思い出せないのに、雪と彼女の悲しそうな目だけは記憶に焼き付いている。
「どうぞ」
マスターが私の前にI.W.ハーパーのロックを置き、理美の前にはカサブランカを置いた。
私は小さく舌打ちをした。
花に花言葉が有るように、カクテルにもカクテル言葉と言うものがある。
ラムベースにパイナップルジュースとグレナデンシロップ、そして隠し味にアンゴスチュラ・ビターを少しだけ加えたこのカサブランカ。カクテル言葉は”甘く切ない思い出”だ。
一周り年上のこのマスターには全て見透かされてるような気がする。
「初めてキスした時のこと憶えてる?」
カサブランカを一口飲んだ後、理美が訊いてきた。
「いや、憶えてない。スキー場だっけ?」
「違うよ……」
少し頬を膨らませて拗ねてみせる仕草は変わってない。
初めてキスをしたのは放課後の校舎裏。夕陽でオレンジ色に染まった理美の顔が神秘的に見えて、後にも先にもこんなにドキドキしたことは無かった。
「じゃあ初めてのデートは?」
「それは憶えてる。水族館だったな」
「それも違う」
初めてのデートは映画館、私は映画なんか見ていなかった。隣にある理美の横顔をずっと見ていた。
「わざと間違えてるでしょ?」
「やっぱりわかるか」
「わかるよ……」
理美は私の脇腹を軽く小突いた。
高校時代の思い出話でしばらく盛り上がった後、理美が一瞬だけ時計に視線を投げた。カウンターの奥にある壁掛け時計の針は午後八時を指している。
「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか?」
「まだ八時だよ?」
「もう八時、だろ?」
私の言葉を聞いて、理美は哀しそうに微笑んだ。
今にも泣きだしそうな目が、十二年前の雪に重なって見える。
「あの頃には、もう戻れないよね……」
「ああ、戻れない」
理美がコートを脱いだ時、さりげなく左手の薬指からリングを抜き取るのを私は見ていた。
彼女が戻るべき場所は十二年前の雪の中じゃない。彼女には今、帰るべき家が有り、愛すべき家族が居る。私はそのことに、大きな荷物を一つ下ろしたような安堵を感じ、そして顔も名前も知らない男に少しだけ嫉妬した。
雪の街に出ていく彼女の背中を見送っていると、目の前にラッキーストライクの箱が出てきた。
「マスター……」
「もう吸ってもいいんでしょ?」
「ちぇっ、なんでも知ってるんだな、あんたは」
私がラッキーストライクの箱から一本抜き取ると、マスターは”人生経験が違うよ”とでも言いたげにニヤリと笑ってみせた。
「灰皿交換しますか?」
「いや、しばらくこのままにしておいてくれ」
灰皿の中でくの字に折れ曲がったMarlboroメンソールから、糸のような細い煙が一筋立ち上っていた。
-了-
最初のコメントを投稿しよう!