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10. 人生で一番つらくて悲しい事件
「怖くなったらすぐに言ってね」
「うん、ありがと」
5時半。ぼくたちはバスに乗り市街地へと向かった。
雪は降ったり止んだりを、朝から繰り返していた。風は強く吹いてはいない。もし吹雪いていたとしたら、美月が外にでるのは厳しかったかもしれない。
「薬は持ってるよね?」
「うん、持ってきてるよ。水筒もちゃんとバッグに入ってる」
混雑しているバスも、美月はあまり得意ではない。すぐにバスから出られないという状態が、怖くなってしまうのだ。
大学院に行くのも、フィールドワークに出るのも、少なからず困難がともなうものだけれど、どうしても民俗学を学びたいとの意志を、家族みなが尊重してくれたのだと、美月は言っていた。
《どういう状況になると怖くなるのかとか、そういうことを分かってると、対処ができるから。いまは、怖くなくなる薬も処方してもらってるし。でも、薬が効くまでのあいだは、ちょっと我慢が必要になるけど》
美月はいつの間にか、こういうプライベートなことを、ぼくに話してくれるようになった。
《むかしは、もっとひどかった。小学生から中学生にかけては、何度か学校に行けなくなった。雨が降るだけで、パニックになることもあった。泣いているわたしを、みんなが嗤うの。地獄だった。先生もあきれて、わたしを叱ることがあった》
そういう暗い過去のことを、家族でもなく医者でもないぼくに話してくれるようになったのは、なにがきっかけだったのだろうか。
* * *
ぼくは、大学生のときに、いままでの人生で一番つらくて悲しい事件を経験した。
妹の死の報せを受け取ったのは、ゼミで酷いほど叱られたあとの帰り道、下宿近くにあるスーパーの前だった。店先には、鮮やかな檸檬が積まれていたのを覚えている。
駆け足で下宿に戻って、すぐに支度をして電車に乗り、大海を臨む高台にある実家に帰った。
自殺だった。死んでいる妹を見つけた母さんは、具合が悪くなって、だれにも見えないところで休んでいた。
父さんは気力を振り絞って、妹の葬式と火葬をすませた。弟は泣いているだけで、忙しさに悲しみを溶かされていた父さんに叱られることもあった。
妹の通っていた学校で、全生徒への聞き取りがあり、その結果、いじめはなかったという調査結果がでたが、父さんはそれに強く反発した。
なぜ、妹が死んでしまったのかということを、うまく説明できるひとは、だれもいなかった。ぼくもまた、そのひとりだった。
大学生になってから三年間、盆と正月にしか帰っていなかったぼくは、実家にいる家族のことを分析できる材料を、ほとんど持ち合わせていなかったから。
もどかしかった。でもその原因が、もし、パニックの症状に苦しんでいたことにあったとしたら?
妹も美月と同じような症状を持っていた。妹のためにちゃんと勉強をして寄り添ってあげられたのは、ぼくだけだったと思う。
ほかの家族の妹への態度は、どこか空回りしていた。決して冷たくしていたわけではない。だけど、うまく接しきれていなかった。
ぼくたちは何度も家族会議を開いた。どれだけ知識を共有しても、どうしてもぼくにしか妹を安心させることはできなかった。相性があるのかもしれない。妹はどこへ行くときでも、ぼくが同行することをせがんだ。
だけどぼくは、大学進学とともに実家を離れて、盆正月以外は帰らなくなった。電話越しから聞こえてくる「大丈夫だよ」という妹の声の裏に、寂しさや不安が含まれているのは、なんとなく感じ取っていた。でも、そう簡単に帰省できない場所で、ぼくは生活をしていた。
もしかしたら、妹の自殺は、ぼくのせいなのかもしれない。ある時からぼくは、そんな可能性を考えるようになった。
だとしたら、ぼくは、なんらかの形で裁かれるべきではないのか?
* * *
バスは何度も信号に引っかかった。市街地に近づくにつれて、交通量は増えはじめた。
「予約したお店の時間は大丈夫?」
決して明るいとは言えない車内。心配そうな美月の顔がよりいっそう深刻に見える。
「大丈夫、安心して。お腹はすいてる?」
「うん、お昼はあまり食べなかったから。鱗雲くんは?」
「ぼくもぺこぺこだよ」
灰凪駅にバスが着くころには、もう7時になりかけていた。雪はちらちらと降っていたが、吹雪く気配はなかった。
駅前の大通りは雪曇りの下で眩く煌めいていて、店の前にたたずむサンタクロースの置物や、イルミネーションに身を包んだ樹木が、喧噪のなかにクリスマスの響きを織りこんでいた。
行き交う人々のうち何人かは、ぼくたちに目線を投げかけていた。もちろん、美月の容姿が、彼らの視線を釘付けにしているわけだが。
そしてその視線には、「なんでこんな冴えないやつが、美少女と付き合えているんだ?」みたいなやっかみが含まれているようだった。
ぼくは、ただただ縮こまるしかなかった。
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