01. 胡桃玖留実 教授(移行期正義)

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01. 胡桃玖留実 教授(移行期正義)

 今日は、院生指導室のドアは開け放たれており、落ちこんでしまうほどのスポーツ関連のニュースかなにかを食らったのかと思ったら、半分はご名答だったらしく、 「7回あたりから一球ごとに寿命が縮んでいくのを実感したわ……」  と、胡桃(ことう)先生が付箋(ふせん)を貼った本の横で、両肘をついて落ちこんでいた。  応援している野球チームが完全試合を食らったを見たらしい。  ノーヒットノーランと完全試合の違いは、大雑把に言えば「四球(フォアボール)」を与えるか与えないからしい。しかし「四球」の有無がどれくらい大きな意味を持つのかは、ぼくには分からない。  先生の向かいの椅子に座ったときに、チャイムが鳴った。  すると胡桃先生はバッと顔をあげて、 「授業をはじめまーす」  と、さきほどまでの落ち込みを感じさせない、朗らかな口調で言い「先生」としての顔つきに変わった。  胡桃玖留実――最初は「くるみくるみ」と読み間違えたけれど、「ことうくるみ」と読む。  34歳で「教授」のポジションにまで上り詰めた、とんでもない天才。他大学の大学院生が、「なんであんな大学にいるの?」と、失礼なことを言うくらいに。  胡桃先生は、ぼくの研究の指導教員であり、西アフリカ諸国の「移行期正義」を中心に研究をしている研究者であり、熱狂的な千葉の球団のファンであり、イタリアのミラノに本拠地を置くサッカーチームの情熱的なサポーターであり、この冬は選手の移籍情報に一喜一憂している。  カールをつけすぎない、肩下まであるブラウンのストレートヘアに、スリット入りのグレーのトップスに乳白色のロングスカートを合わせた、シャープな印象の受けるコーデは、大学生のようなシルエットに見える。  ぼくは、三枚にまとめた資料を先生に差しだし、この二週間で調べたことを口頭で報告した。  西アフリカから任意の国を選び、その現代史について調べるというのが、先々週出された課題だった。日本語で書かれた本や論文はほとんどなく、苦労して英語の本を一冊読んだ。英語の論文は二本しか目を通すことができなかった。  いまのぼくの英語力は、それくらいのものなのだ。 「和平合意が破棄されたあとの紛争の経過は、二枚目の一番下の表にまとめてあります」  胡桃先生は、ぼくの(つたな)い口頭報告を、うんうんと(うなず)いて聞いてくれている。 「フランスの歴史学者――氏によると、このクーデターは、植民地期のレガシーを引き継いでおり……」  きっと、有名大学に所属している大学院生ならば、フランス語のを読むことだろう。しかしぼくは、フランス語を、読むことも書くことも、話すこともできない。日本語に翻訳した書籍から引用している。  翻訳されているということは、かなり重要な文献であるという証でもある。だからこそ、原書で読むことが推奨される。  だけどぼくは、読むことができない。 「以上で、報告を終わります」  胡桃先生は、ぼくの発表中、資料に鉛筆でメモ書きをしていた。 「うん、うまくまとめてあると思う。読むべき文献も、ちゃんと押さえているし」  まず、褒めてくれる。否定から入らない。それが、胡桃先生の魅力のひとつでもある。 「もうひとつ欲張って注文すると、隣国との関係に注意しながら、この国の歴史を考えると、よりクリアに内戦とクーデターの内実を見ることができると思う。よく言われていることだけれど、1990年代以降、サハラ砂漠より下のアフリカ諸国では、地域紛争・内戦の数が急激に増えて、紛争の形態も変化したの。例えば、紛争当事者が多様化したこと。軍隊ではないアクターが大規模暴力に関与するようになる……」  先生はここで一呼吸置いて、ぼくがメモを取る時間を与えてくれる。 「……それで、この国の内戦とクーデターを考えるときには、軍人や官僚だけではなく、複数の当事者を意識しないといけない。この点については、別の授業で一緒に読んでいる本にも書いてあることだし、そのときにじっくり考えるとして……」  それから、先生のコメントは十数分にわたり続き、ぼくは資料の空白部分や後ろに一生懸命メモを取った。  指導教員との1対1の授業。こういう形態の授業は珍しいらしい。ひとりの先生に何人もの院生が指導を受けるのが「普通」なのだという。そう、バイト仲間に教えてもらった。  でも、これは仕方ないのだ。うちの大学院には、ぼくを含めてふたりしか院生がいないんだから。  よく流通している大学評価の言葉に「Fラン」なんてものがあるけれど、ぼくが所属する大学もその「Fラン」に分類されているらしい。  しかし胡桃先生は、こんなことを言っていた。 「そういうレッテルってさ、うちの学生全員に失礼だから、ほんとに止めてほしいわよね。うちの学生を目の前にして、そういうこと言えるのかなあ。まあ、勝手に言わせておけばいいけど」  それでもぼくは、ここの大学院に来てよかったと思っている。胡桃先生のもとで学べることは、ぼくにとってかけがえのない時間だ。  それにこの大学には、個性的で魅力的な先生たちが、他にもたくさんいるから。
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