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18 結婚したくない
翌朝、アレンは、疲れていたにも関わらず、とある令嬢と朝早くに人目の多い公園で『密会』し、昼はご婦人と不倫を匂わせてながら遊び仲間のところで昼食をとった。そして帰宅してみれば、恋文が呆れるほど机の上にある。アランはざっと必要なものだけ取り出して残すと、あとは返事を代筆屋に書かせるように言いつけ執事に手渡した。いらないものは躊躇なくどんどん火にくべる。
「若旦那様、そろそろ宮廷に行かれるお時間です。もう馬車が下で待っております」
「わかった」
見下ろせば、庭にある銅製の日時計が時を指していた。アランは宮廷服を羽織り執事から手渡された帽子を被る。
——これが俺か?
馬車の窓ガラスに映る自分の顔を見てアランは愕然とした。クリスティーヌと出会った当初は何もかもが楽しく思えたというのに、今の彼の顔は青白く目はくぼんで魂を抜かれた屍のようである。アランは『もし』、をガラスに透けた自分を見て考えてしまった。つまり『もし、ヴァレリーと結婚してクリスティーヌと二度と会うことなくなったら』という空想である。それは恐ろしい未来図で、アランを深い闇へと引きずり込もうとした。アランはステッキを握りしめた。
——あと二ヶ月半だ。
クリスティーヌがダデールに行くまでの残された日数。その間になんとかしなければならない。
アランは外を見た。木々は葉を落とし凍えているが、その頃には若葉が芽生えているだろう。暑くもなく寒くもない旅するには丁度いい季節。彼の『妖精』は彼の元から去って行く。
「どうぞ、子爵」
いつの間にか王宮の玄関の前に車は止まり、彼の顔を写していたガラスの付いたドアも開かれていた。
「アラン!」
そこにヴァレリーがとはち切れんばかり笑顔で出迎えた。嬉しそうな彼女を見ると余計に彼は冷めていくのが止められない。アランは豪奢な回廊も唐草の階段の手すりも金に装飾された磁器の花瓶にも虚しくなって作り笑いをするのがやっとだった。
「上でお茶にしましょう?」
「殿下。天気もいいので散歩はいかがですか」
「そうね。それでもよくってよ?」
「止めてくれ」
馬車は街灯が一つある暗い道の角で止まった。窓の外には意味ありげに微笑み手を振る女が二人。安くテカテカと光る絹のドレスが夜の闇にも鮮やかである。女二人の後ろには帽子を深くかぶった男がいて御者が金の入った袋投げると、つばを少し下げて夜の闇に消えて行った。
「子爵、遅いですわよ」
「悪い」
派手な女たちは『寒い、寒い』と言って馬車に乗ってきた。安い白粉の匂いが鼻をつく。尻が大きくて、アランもジョルジュも席をずらしてやらなければならないほどだ。
「あら、まあ、今日はもう一人、ハンサムがいらっしゃるのね、子爵」
「ああ。ジョルジュという。煮るなり焼くなりお前のしたいようにしていいよ」
「ごきげんよう」
女がジョルジュの頬にキスをして真っ赤な口紅を移した。アランが笑い、頬をさすと、ジョルジュは半泣き状態で必死にハンカチで顔を拭った。
「どうする? カードゲームでもしようか?」
「それはいいわ」
「それとも歌劇でも見に行く?」
「まぁ? あたしたちなどをお連れくださるの?」
「ああ。行きたいのならね」
片目を瞑ったアラン。その腕をジョルジュが恐ろしい形相で引っ張って囁いた。
「まさか、本気で国立劇場にこの下品な女たちを連れて行くんじゃないだろうな」
「悪いか」
「それぐらいなら妄想の恋人の話に付き合っていた方がマシだった」
「来たくないないなら、その辺で降ろしてやるよ」
「こんなところで降ろされたら着ぐるみ剥がされて死体を河に捨てられるよ」
アランが笑った。
「君は馬車で待っていればいい。どうせ入れやしないんだから、追い返されるよ」
結局、ジョルジュは馬車から降りずにいたが、アランは果敢にも劇場にふさわしくない女二人を両腕に、歴史あるフローラ国立劇場に降り立った。
「申し訳ありませんが、子爵……」
無論ドレスコードを理由に追い返されたが、そんなことは初めから分かっていたことだ。多くの者が白い目で彼を観て、「あれがルルーレーヌ子爵だ」「あのヴァレリー王女の?」「酔っ払っているのか」「まぁ、嫌ですわ」とまぁ、一通りの批判を受けてその夜を締めくくる。今夜はなかなかの成果が得られたようだ。
まったく、いい噂というものはなかなか流れないものだが、悪い噂というのは金をやってわざわざ流さなくてもすぐに都中に広まる。アランがいくらポーカーで負けただの、彼が何人の女と出来ているだの、誰それを殴っただのということは尾ひれがついてあっという間に広がっていた。なんと、アランの家のメイドの幼い息子までが知っているというから計画通りである。
——クリスティーヌ。
アランは彼の見つけた『妖精』を恋しくてならなかった。
ジョルジュからクリスティーヌがアランの噂を聞いて悲しそうにしていたと聞いた時、罪の意識に苛まれた。しかし、誰かが悪くならなければならないとしたら、それは発端であるアラン自身である。彼はクリスティーヌから返却された『青の王国記』の六巻の表紙を撫でた。オデッド王女も所有しているだろうし、自分でも買えるだろうにあえて、彼女はまだアランの蔵書を借りている。そして返却する時、小さな栞を挟んで返す。オデット王女の影響で絵を描くようになったのか、ペンで今日は魔王の紋章を描いてあってそれがなかなか上手だった。
アランはそれを一つ一つ、机に並べて見た。
次に貸す時には何か気の利いた言葉を書いて本に挟もうかと思うが、クリスティーヌが自分のせいで受けた仕打ちを考えると愛しいなどとほのめかすのもおこがましい。アランは彼女から与えられるささやかな好意を陽の光を待つ農夫のようにひたすら待つ身だった。
「若旦那様」
夜遅いのにも関わらず、執事が盆に手紙を乗せて持って来た。
「昼に宮殿よりご使者がありました」
「そうか」
開けばヴァレリーからの昼食の誘いである。
アランは筆をとって、先約があると断った。しかし、ここはしっかりとヴァレリーと向き合うべきだと思い直し、散歩でもいかがかと書き足す。
「早朝、届けるように」
「かしこまりました」
アランは五枚の栞を丁寧に木箱にしまうと鍵を閉めた。今夜も彼の妄想はただ一人、クリスティーヌしか現れないだろう。はクリスティーヌと同じ年の十六歳。まだ恋を知らない。多分、アランのことが初恋で、まるで砂糖菓子を欲しがる子供のように彼を欲しがっている。苦労ばかりで生きてきたクリスティーヌと比べても仕方ないが、幼いところはどうしようもない。
「アラン、どうしたの? 疲れているように見えるわ」
「昨夜、飲みすぎたようです」
「あら、そう? でも今から馬を見に行きましょう。お父様が新しい馬を買ってくれたのよ。アランなら一番に乗せてあげてもよくってよ。それとも楽団を庭に連れてくる? ダンスをまだ一緒に踊ったことがないでしょう?」
「少し歩きませんか。風に当たりたいのです」
アランは悲しく笑った。『もし』が現実になってしまったら、永遠にこういう笑みを作って生きて行かなければならないかと思うと悲しくなる。アランはまだ年若い王女の心をなるべく傷つけないように細心の注意を払って口を開いた。
「ヴァレリー殿下」
恋に輝く瞳がアランを見上げた。
「神は信じますか」
「え? ええ」
「俺は先日、大きな罪を犯しそうになったのです」
「罪? なんのお話?」
「懺悔しているんです。俺は酔ってテレー河に身を投げようとしました」
王女は眉を寄せて、胸に手を当てた。その顔にはクリスティーヌと同じように『神様はお許しにはなりませんわ』と書いてあるが、加えて自死を選ぼうとした男へ無意識の蔑みがあった。それは死にたいと思うほどに苦しんだことがない人なら当然に持ち合わせる感情であるが、今のアランには鋭い刃物のように残酷に映った。
「なぜそんなことを? 」
アランはベンチに「止めてくれ」
馬車は街灯が一つある暗い道の角で止まった。窓の外には意味ありげに微笑み手を振る女が二人。安くテカテカと光る絹のドレスが夜の闇にも鮮やかである。女二人の後ろには帽子を深くかぶった男がいて御者が金の入った袋投げると、つばを少し下げて夜の闇に消えて行った。
「子爵、遅いですわよ」
「悪い」
派手な女たちは『寒い、寒い』と言って馬車に乗ってきた。安い白粉の匂いが鼻をつく。尻が大きくて、アランもジョルジュも席をずらしてやらなければならないほどだ。
「あら、まあ、今日はもう一人、ハンサムがいらっしゃるのね、子爵」
「ああ。ジョルジュという。煮るなり焼くなりお前のしたいようにしていいよ」
「ごきげんよう」
女がジョルジュの頬にキスをして真っ赤な口紅を移した。アランが笑い、頬をさすと、ジョルジュは半泣き状態で必死にハンカチで顔を拭った。
「どうする? カードゲームでもしようか?」
「それはいいわ」
「それとも歌劇でも見に行く?」
「まぁ? あたしたちなどをお連れくださるの?」
「ああ。行きたいのならね」
片目を瞑ったアラン。その腕をジョルジュが恐ろしい形相で引っ張って囁いた。
「まさか、本気で国立劇場にこの下品な女たちを連れて行くんじゃないだろうな」
「悪いか」
「それぐらいなら妄想の恋人の話に付き合っていた方がマシだった」
「来たくないないなら、その辺で降ろしてやるよ」
「こんなところで降ろされたら着ぐるみ剥がされて死体を河に捨てられるよ」
アランが笑った。
「君は馬車で待っていればいい。どうせ入れやしないんだから、追い返されるよ」
結局、ジョルジュは馬車から降りずにいたが、アランは果敢にも劇場にふさわしくない女二人を両腕に、歴史あるフローラ国立劇場に降り立った。
「申し訳ありませんが、子爵……」
無論ドレスコードを理由に追い返されたが、そんなことは初めから分かっていたことだ。多くの者が白い目で彼を観て、「あれがルルーレーヌ子爵だ」「あのヴァレリー王女の?」「酔っ払っているのか」「まぁ、嫌ですわ」とまぁ、一通りの批判を受けてその夜を締めくくる。今夜はなかなかの成果が得られたようだ。
まったく、いい噂というものはなかなか流れないものだが、悪い噂というのは金をやってわざわざ流さなくてもすぐに都中に広まる。アランがいくらポーカーで負けただの、彼が何人の女と出来ているだの、誰それを殴っただのということは尾ひれがついてあっという間に広がっていた。なんと、アランの家のメイドの幼い息子までが知っているというから計画通りである。
——クリスティーヌ。
アランは彼の見つけた『妖精』を恋しくてならなかった。
ジョルジュからクリスティーヌがアランの噂を聞いて悲しそうにしていたと聞いた時、罪の意識に苛まれた。しかし、誰かが悪くならなければならないとしたら、それは発端であるアラン自身である。彼はクリスティーヌから返却された『青の王国記』の六巻の表紙を撫でた。オデッド王女も所有しているだろうし、自分でも買えるだろうにあえて、彼女はまだアランの蔵書を借りている。そして返却する時、小さな栞を挟んで返す。オデット王女の影響で絵を描くようになったのか、ペンで今日は魔王の紋章を描いてあってそれがなかなか上手だった。
アランはそれを一つ一つ、机に並べて見た。
次に貸す時には何か気の利いた言葉を書いて本に挟もうかと思うが、クリスティーヌが自分のせいで受けた仕打ちを考えると愛しいなどとほのめかすのもおこがましい。アランは彼女から与えられるささやかな好意を陽の光を待つ農夫のようにひたすら待つ身だった。
「若旦那様」
夜遅いのにも関わらず、執事が盆に手紙を乗せて持って来た。
「昼に宮殿よりご使者がありました」
「そうか」
開けばヴァレリーからの昼食の誘いである。
アランは筆をとって、先約があると断った。しかし、ここはしっかりとヴァレリーと向き合うべきだと思い直し、散歩でもいかがかと書き足す。
「早朝、届けるように」
「かしこまりました」
アランは五枚の栞を丁寧に木箱にしまうと鍵を閉めた。今夜も彼の妄想はただ一人、クリスティーヌしか現れないだろう。座らせると、また悲しく微笑む。
「何故なら、俺は子供の頃からなんでも自分のことは自分で決めてきたのです。何を学び、どこへ行き、誰と会うか、全てです。しかし、今、俺は人生で一番大切な選択肢を自分ではなくあなたに握られています」
少女は唇を尖らせて、不服そうにアランを見た。
「結婚したくないとまだ言っているの?」
「結婚してもあなたを幸せにはできません」
「私は幸せにしてもらおうなど思っていないわ。だって私はもう十分幸せですもの」
アランは胸ポケットから一冊の本を取り出した。『青の王国記』の七巻である。
「読んだことはありますか?」
「『青の王国記』? ないわ。だってそれって変な人が読む本でしょう? あのオデッド王女みたいな変わっている人たちの読み物よ。私はそういうタイプではないの」
「素晴らしい物語です」
少女は興味がない様子だった。そもそもダデール語が読めるのかも怪しい。それでもアランは居心地が悪そうにドレスの裾をしきりに直している少女に続けた。
「ここに魔王ソフテという人物が出てきます。魔王はフェアリーという女性を愛しますが、彼女の気持ちを無視して鎖で繋いで最高の愛と贅沢を与えます。しかし彼女の心は凍ったままソフテに向くことがないのです」
「それが私だって言いたいわけではないでしょうね? 無礼だわ」
「さあ。ソフテは王女だけでしょうか。俺はクリスティーヌを愛しているのに、愛という鎖で繋いであの人を苦しめている。王女は権威という絶対で俺を振り向かせようとする。無礼なのは承知で申しました」
「アラン。私はあなたのことをずっと好きなの。ずっとよ。子供の頃からなの」
「光栄です」
「光栄ではなく、『俺も』と言って、命令よ」
「命令なら申しましょう。『俺も』」
「…………」
「何度でも申しましょう。それがご命令なら。それで殿下がご満足できるのならですが」
少女は勝気な瞳を揺らがせた。アランは、七つも下の王女に優しく諭すように話す。
「ソフテは結局気づいてしまったのです。愛は鎖では繋げないのだと。それからは愛されるように努力して、フェアリーも彼に惹かれ始めます。しかし、勇者が囚われのフェアリーを助けにくるのです」
「それで?」
「それで、フェアリーは誤解を解こうとしますが、勇者は魔王を退治しようとしていまい、それ庇ったフェアリーを傷つけてしまいます。最後、魔王は自らの命と引き換えにフェアリーを助ける。そういうお話です」
「悲しすぎるわね。そういう悲恋のお話は好きではないわ。私はハッピーエンドじゃなきゃ読まないの」
「はい。しかし、フェアリーはその後、第二部で運命の人と出会い、幸せになります。ソフテを愛したことを生涯忘れることなくソフテがくれた命を大切にするのです」
アランは王女の膝の上に本を置いた。
「差し上げますので読んでみてはいただけませんか」
王女は皮で表装された本をしばらく見下ろした後、アランに突き返した。
「読みたくないわ」
「どうしてですか」
「こんなのを読んでいたら恥ずかしいもの。私はそういう本を読む人たちと違うの」
「そうですか。では薦めている俺も変な人ですか」
「いいえ。アランは違うわ。おしゃれだし、ハンサムだし、みんなアランのことが好きだもの。だから私もアランが好き」
アランは苦笑した。
王女はただ人気者になりたいだけなのだ。みんなに自慢できる夫を持てばヴァレリーの評価も上がると思っている。
「残念ながら、殿下。俺はあなたのいう『そういう本を読む人たち』の一人なのです。しかも『青の王国記』の崇拝者だと公言しているオデット王女から、『変態』とまで言われるレベルの妄想読者です。なぜ、俺の両親がこうも急いで結婚させようと思っているか知っていますか。俺の『青の王国記』への傾倒が酷いので心配になったからなのですよ」
「嘘をつかないで。そんなことで婚約を破棄しないわ」
「今日はこれで失礼します。本はここに置いておきます。いらなければ処分してください」
アランは立ち上がると、王女の手のひらに儀礼的にキスをして踵を返した。少女は涙をいっぱい貯めて怒っていたけれど、それを慰める言葉も資格も持ち合わせていない彼は振り返ることをしなかった。
——待っていてくれ、クリスティーヌ。
鎖を全て取り除き、クリスティーヌを自由の人とした時、アランは自分と同じ道を歩んでくれと頼もうと決意した。王女もいつかアランの気持ちが分かる時が来るはずである。
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