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1自殺志願者一名あり
クリスティーヌの残念な貴公子
1
年の瀬のテレー河の畔り。
街灯が照らす石畳の道を鞄一つ抱えた少女が一人歩いていた。
年の頃は十六。肌は陶器のように白く、瞳は湖の底のような翠色。寒さに凍えた頬が紅潮し、口元の下にエクボがある。色あせた紺色のデイドレスとそのお揃いの帽子はいささか流行遅れの上、体に合ってないが、帽子が隠すその髪は絹糸のような見事なプラチナブロンドである。
「あと二十二フレン」
彼女の名は、クリスティーヌ・デラフォン男爵令嬢。破産した父が先日亡くなり、現在行くあてもなく彷徨っているところで、半円のアーチの美しいフローラ王国の代表建築、テレー橋の下で夜を明かそうかとぼんやりと考えている。
「あと二十二フレン」
そして先ほどからしきりに呟いているのは所持金のことで、現在、財布には十フラン硬貨が二枚と一フラン硬貨が二枚の計二十二フランしかない。これではパン一つもまともに買うことができない。もう三日というもの公園で水を飲んで喉の渇きを癒している始末であるが、かといって貴族のつまらぬ意地があって物乞いもできずに残金を呟いては空腹に耐えているのである。
「馬鹿野郎!」
遠くで怒声がしたかと思うと、瓶が割れる音と犬がけたたましく吠える声がしてクリスティーヌはを縮めた。そしてすぐにたった二十二フレンしか入っていない財布を抱きしめた。強盗さえも呆れるほどの持ち合わせでも、彼女にとっては全財産なのだ。
——お父様。助けて。
クリスティーヌは白い息を手のひらにかけると、空を見上げた。
奇しくも今年初めての雪が舞い散り始め、手のひらの上で溶ける。水気の多い重い雪だから、きっと明日の朝には世界は白銀となっていることだろう。
そして無意識に自慢の髪に手を触れた。髪を売れば数日だけでも宿と食べるのに困らなくなるかもしれない、そんなことを考えると惨めになって、目頭が急に熱くなる。でも涙は流すまい。今日を乗り越え、明日になればきっと仕事が見つかるのだから。彼女は橋を渡り始めた。
そして橋の半分にも行かぬうちにふと見れば、橋には先客がいた。夜会服を着ているところから、年明けを祝うパーティーを抜け出してきたのようだった。ウイスキーボトルを片手に酔っているのだろう、しきりに欄干から身を乗り出して河を覗き込む。白鳥がいるわけでもない。何か落としたのかと彼女ものぞいたが、そこには暗黒の河があるばかりだ。
「くそ! 死んでやる! 神がなんだ! 死んでやる、死んでやる」
男はそう叫ぶと街灯の柱を掴んで欄干の上に立った。酒瓶が河に落ち、暗い水底(みなぞこ)に消える。クリスティーヌは『大変だわ!』と走り出した。リボンが解けて帽子が飛び、プラチナブロンドが雪の中で輝く。クリスティーヌは大切な二十二フレンの入ったバッグを地べたに放り出すと大きな声を上げた。
「おやめください! 自殺などとんでもありませんわ!」
その声に男がハッと彼女を見た。栗色の髪とクリスティーヌと同じ翠の瞳を持つ人は二十二、三の端正な顔立ちをした紳士だった。それが彼女を見た途端、まるでメデューサを見たかのように口を開けたまま固まって、魔法が溶けるのを待っていた。
クリスティーヌは何か間違いをしたかと思った。『あの』と言いかけて、白く細い手の指を宙に持ち上げ、「自殺など神様がお許しになりません」と蚊のなくような声で言った。男は何かをそれに答えかけた。しかし出鼻を挫かれたせいか、その拍子にするりと欄干から足を滑らせた。
「危ない」
クリスティーヌは慌てて手を伸ばした。
間一髪、男は宙を浮いている。固く結ばれた手と手。しかし、クリスティーヌが必死に重い男の支えているというのに当の本人は彼女の驚愕の目で見いるばかりでなかなか這い上がろうともしない。
「君は?」
「と、通りすがりの者ですわ」
「妖精ではないのか」
『酔っ払いだわ』とクリスティーヌは眉を寄せて思ったが、「しっかりつかまってください。さあ」と男を励まして橋の内側まで引き上げた。息が切れ、二人は石橋に座り込んで違いを見る。男の方が先に髪をかきあげて笑った。何がそんなにおかしいのか分からなくて不謹慎な男をクリスティーヌは睨んだ。
「いや、死のうとやっと決意していたのに、君に見惚れてしまった」
口のうまい男に少女は瞬きをし、男はまた柔らかく微笑んだ。
「ありがとう。妖精さん」
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