19 瑠璃色の顔料

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19 瑠璃色の顔料

クリスティーヌはオデット殿下とお忍びで画材屋に来ていた。  絵の具の臭いに初めは頭痛がしていたクリスティーヌだが、今では心が落ち着くから不思議である。パレット、筆、キャンバス、深緑の羽のついた帽子を深く被ったオデットはまるでおもちゃでも買いに来た子供のように目を輝かしながら店を走り回っていた。  クリスティーヌもスケッチブックを一つと、絵画用のペン、そしてラピスラズリの顔料を手にとった。普通より高価な色なので買うのに勇気がいるが、眺めている分にはただである。 「欲しいの?」  オデットがクリスティーヌの手から顔料を取り上げた。 「いいえ。今、『青の王国記の』の七巻を読んでいるので、魔王ソフテの瑠璃の指輪を思い出していたところです」 「まぁ。ええ。確かにこの色ね」  王女は必要だと判断し、それも店主に渡す。そして筆を取るとクリスティーヌの頬をなで、『くすぐったい?』と笑わせる。クリスティーヌは『おやめください』と言いながら、別の筆で王女の頬を筆で撫でた。そして微笑みながら、昨日受け取ったアランからの手紙のことを思い出した。  親愛なる俺の『妖精』、クリスティーヌ。  君と別れなければならなくなった。  これは初めから約束していたことで、お芝居の筋書きに過ぎない。しかし、俺の胸は張り裂けんばかりに苦しくてならないんだ。  それでも君に多大な迷惑をかけ、あまつさえフローラを出なければならなくなったと聞けば、当然に耐えなければならない痛みだと分かっている。これからは何の関係もない間柄となり、君に失礼な態度を取るかもしれないが、先に謝罪する。    君の誠実なる友人、アラン  約束通り、アランは自分が所有していた『妖精』の衣服や装飾品を送って来た。中には高価なジュエリーもあり、貰えないとクリスティーヌは言ったけれど、アランは『妖精』とは決別しなければならないからと頑なに受け取らなかった。 「またアランのことを考えているでしょう? やめなさい」  王女が呆れるように言った。手には似たようなハケが四つ。何にそんなに使うのだろう。 「このドレス似合っておりますでしょ?」 「え? ええ。私、男のくせに変態人形遊びをするアランは好きではないけれど、服の趣味はいいわね」 「以前はフェアリーのことを知らなかったので、アランの理想の女性『妖精』さんのことも理解できませんでしたから、服に着られているって感じでした。でも今は服が馴染んできている気がします。アランにもらってよかったと思っていたところです」  微笑んで、クリスティーヌはオデット王女のハケを二つ店主に返した。 「ダデール製の道具は輸入品で割高ですわ。もうすぐ帰国されるのですから、フローラでしか買えないものを手に入れた方がいいと思います」 「それは確かにそうね。フローラは紙とインクが良質だからそれをまとめ買いすることにする」  クリスティーヌは本当の叔母のように王女を思って、一つ一つの道具を一緒に選び始めた。ガラスに入った色とりどりのインクは不思議な魅力がある。光に当てて透かして見ると沈殿したものがキラキラと光り美しい。クリスティーヌは窓際に移動して不純物の少ないのを見つけるべく若紫色のインクを振ってみた。よし、合格。そして別の瓶を手にし、光に掲げようとしてふと見れば、窓の向こうにアランの姿があるではないか。彼は最近噂の既婚のレディと楽しそうに歩いていた。二人はあたかも恋人同士である。  ——アラン。  彼の素行の悪さは最近の都では知らぬ人がいないほどになっていた。 『王族と結婚することになって自暴自棄になっている』という人もあれば『昔からああいう軽薄な男だ』という人もいる。しかし、クリスティーヌにはあの翠の瞳の底が本当は笑っていないのを知っていた。彼の心中は華やかさとは全く無縁の孤独しかない。 「ねぇ、ちょっといい?」  クリスティーヌは店主の息子をこっそり手招きすると、瑠璃色の顔料をアランに渡すように頼んだ。少年はお小遣いの銅貨を受け取るとニコリとし、ドアのベルを小さく鳴らして外に出て行った。そしてせわしない通りを小走りにかけていき、アランの袖を引いて顔料を手渡した。彼は眉を寄せてそれをしばらく見ていたが、誰がくれたかに気づいたのだろう、ハッと顔を上げ絵具を握りしめた。 「いきましょう、クリスティーヌ」  アランに気づかなかったオデット王女はもう一本筆を選ぶと店を後にした。ほとんど買占め状態である。大量の荷物と共に人々の注目がクリスティーヌたちに注がれた。その中にはクリスティーヌに気づいたアランの姿もある。  彼は通りの向こうの帽子屋の前で街灯に寄りかかって立っていた。その視線もその瞳の切なさも感じるのに、別れの手紙をもらってから『あら、偶然ね』と声をかける勇気がクリスティーヌにはとてもなかった。ぎこちなく笑って、お世辞を言い合って、『じゃ、また近々』なんて社交辞令を言うのは耐えられない。  ——好きなのだわ、わたしはアランが。  馬車に乗るとちらりと彼を見てみた。しかしアランは連れの女性に手を引かれ店の中に入るところで、その顔をクリスティーヌは見ることはできなかった。視界に入ってきたのは女の嬉しそうな顔と甘えたような唇だけ。ガラスみたいな心が砕ける音がして、彼女は顔を無理に上げた。これでいいのだ。アランには婚約を解消するという重大な目的がある。今は会いたい、話したい、あなたが好きなどと言ってはならない。 「馬車を出してちょうだい」  二人の横顔がすれ違い、太陽の瞬きとともにその距離はあっという間に離れていく。そしてテレー橋を渡るとアランが欄干に上り死ぬのだと騒いでいた場所を通りすぎる。かの日を思い出してクリスティーヌは小さくため息を吐き、そんなことを知らないオデット王女が腕を突いた。 「帰ったら、フェアリーの絵を完成させるわ。帰国したら一番にお母さまに見せたいの」 「ええ。わたくしも完成が楽しみですわ。お国の方々も殿下があんなにたくさんの絵を描いたと知ったら驚かれるでしょうね」 「いいモデルを見つけましたからね。いつもはやんちゃで困っているけど、今回ばかりはジョルジュには少しだけ感謝しているの」 「週末には遊びに来ると言っていました。菓子でも焼きましょうか?」  日は西に傾きかけていた。赤い夕焼けが斜めに車内を照らし、隣にいるオデットの頬に翳を作った。クリスティーヌは髪を直してやろうと手を伸ばし前屈みになった。ところが馬車が大きく揺れたかと思うと橋の真ん中で突然止まるではないか。子供でも轢きそうになったのかと、クリスティーヌは乱れた帽子を持ち上げて外を見れば。アレクサンドルである。こんな無礼は近衛校尉程度では許されることではない。 「王女様には館にお帰りいただきます」 「何かあったの?」 「自分はオデット王女を館まで護衛するようにしか命令されていませんので、詳細はお答えできません」  ピシリと言ったアレクサンドルには情が少しもなかった。あくまで武官で、騎乗したまま降りる様子もない。何か非常事態が起きたのだ。オデットは無礼な男たちに怒る様子を見せながら、その実、不安になったのかスカートを握り締めている。クリスティーヌは優しくその肩を抱いた。 「なにがあったのですか」  アレクサンドルは言うか言わないか悩んだ末に声を潜めて言った。 「どうやらダデールとの国境で戦があったようです」 「戦が?!」  結局、分かったのはそれだけだった。どこで、どれくらいの規模で、なぜ、などと言う質問に、屋敷にダデール大使を呼び出しても答えられず老人はカツラの下の汗を拭いてばかり。しかも館の周りはフローラの兵士たちで囲まれてしまいほぼ軟禁状態である。 「心配ありませんわ。ダデールにはフローラ王の弟君が滞在していると聞きます。王女様に滅多なことをしませんわ」 「フローラ王と弟君はすっごく仲が悪いのよ。軟禁なんて、まったく許しがたい無礼ね!」 「それでも表向きは仲のいい兄弟。ダデールが王女と引き換えにしようと言い出せば、交渉に応じざるを得ません」  王女は不安で一杯な顔でクリスティーヌを見たが、彼女は優しく微笑んで抱きしめた。 「大丈夫ですわ」  クリスティーヌはジョルジュに手紙を書いたけれど、それをアレクサンドルは受け取ってはくれなかった。外部との連絡は限られ、部屋の前にさえ兵士が立っている。全てそれは『王女の身の安全のため』だと言い張るのだから滑稽だ。  メイドの多くも帰されてしまったので、夜遅くなっても夕食が告げられることがなかった。
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