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2 恋人のふりをして欲しい
男はアラン・ルルーレーヌ子爵と名乗った。公爵の息子で、フローラの社交界では有名な貴公子である。言いよる令嬢やご婦人は山といるのに、なかなかなびいてくれないつれない男と評され、彼にダンスを申し込まれたらちょっとした自慢話となる。
「あなたのような恵まれた人がどうして?」
クリスティーヌは憔悴しきっている年上の青年にショールをかけてやった。
「恵まれすぎているから、かな」
聞けば、王族との結婚を打診されているのだという。自分には名前は言えないが心に決めた女性がおり、その人と結婚予定だからと断ったが、王室は身辺調査をし、彼にはそんな女性がいないことを報告しまった。アランは父親から叱責を受けた。
「父にね、言われてしまったんだ、新年までに俺の恋人の『妖精』を連れてこなければ、この話は決定だと。王族と結婚すれば今までのように自由には生活できないし、相手は俺の好みでは全然ない。お互い不幸になるだけなのに家柄が釣り合うというだけで子供をもうけるのは、虚しいとは思わないか」
「お気持ちはお察ししますわ」
「これが俺の運命なんだろうか。それならなんて神も世間も無情なんだ」
クリスティーヌはさっきまで自分が世界で一番不幸だと思っていたというのに、困っている青年を見ると、気の毒に思えてならなかった。人には人の悩みがある。アランは恵まれているが故に、クリスティーヌがしなくていい悩みを抱えていた。
「ではその恋人の『妖精』さんを公爵に紹介してみたらいかがですの? きっと認めてくださいますわ」
「それができていたら死のうなどと思わないさ」
自嘲気味にアランは笑った。
「『妖精』は俺の空想上の恋人なんだ」
クリスティーヌは「え、ええ……そうですの?」と半ば裏返った声で言った。
「レディ・デラフォンそんなに引かないでくれ。これはもともと女よけで始めたことなんだ。交際を求められて断る口実に自分には秘密の恋人がいると言っていた。あっちでもこっちでも同じ理由で断っていたら、いつの間にか具体的な女性像ができてしまった、ただそれだけの話なんだ」
「それがプラチナブロンドの『妖精』さんなのですね」
「プラチナブロンドの小柄な美女。少し事情があって公にはできないので連れてくることができないのだが、心から愛している、そういう設定だった」
ずいぶん子供じみたことをするものだとクリスティーヌは呆れ、立ち上がった。
「馬車を呼んできますわ。どうぞ命を大事にしてください」
スカートの塵を払い、もう二度と会うこともないと投げ出していた鞄を拾う。ところが、
子爵の方は彼女の手をがっしりと掴むと放さない。
「子爵。お離しください」
「レディ・デラフォン。助けてくれないか」
「助けるって何を……」
「もちろん、俺の恋人のふりをして欲しい」
「困りますわ。あなたのことをよく知りませんし、そもそも髪の色しか同じではないではありませんか」
「お気の毒なデラフォン男爵のことは聞いている。こんな夜遅くにレディが一人で橋の上にいたのは、もしや俺と同じことをしようと考えていたのではなのか」
信仰深いクリスティーヌは『違います!』と答えようとしてやめた。まさか、飛び降りるのではなく、橋の下で一夜を過ごそうとしていたなど恥ずかしくて言えない。長いまつ毛をうつぶして冷えた指先を見た。雪はだんだんと強くなり、アランの髪や肩を白くしている。
「こんなところにいれば凍死してしまう。あなたは俺の命の恩人だ。とにかく暖かいところに行こう」
クリスティーヌは疲れていた。昨夜もよく眠れていないし、何も食べていない。子爵が信じるに足りる人かもよく分からないまま、付いて行ってしまったのは、心身共に限界だったからに違いない。
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