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26 ええ、喜んで
クリスティーヌは馬車に乗った。
目指すは城とは名ばかりの監獄『リッド城』。昼でも陽が当たらず、多くの高貴な囚人はそこで一年と待たずに命を落とすという。クリスティーヌは怯えるオデットを抱きしめると、悩んだ末にドアを閉めようとしたアレクサンドルにオフェム閣下を渡した。
「ごめんなさい、厄介ごとを押し付けて。アランかジョルジュに預けてくれる? 閣下はとても気難しいから自由な場所ではないと飼えないの。あと、伝えて、冷たいミルクを飲むとお腹を壊してしまうから気をつけてって」
「クリスティーヌ、猫のことは心配しなくていい。オレが預かってもいいんだ。でも、あなたは――」
そう言いかけて彼は口をつぐんだ。オデット王女の前で『あなたは関係ない人間なのだから付いていく必要なんかない』などととても言えなかった。
「わたくしのことは心配しないで。貧乏なのには慣れているもの。王女の身の回りのことぐらい簡単よ」
アランは声をひそめた。
「せめて子爵に手紙を書いたらどうか。オレが届ける」
「決まりを破ってお仕置きを受けるのはアレクサンドル、あなたよ。ずっとよくしてくれたのに、困らせるようなことはできないわ。オフェム閣下を届けてくれるだけで十分よ」
クリスティーヌは身を半分馬車から出すと、彼の頬に別れのキスをした。
「さようなら」
「クリスティーヌ」
クリスティーヌはガラスから手を離せずにいるアレクサンドルに優しく微笑み『大丈夫』と頷いてみせた。でも、本当のクリスティーヌの心は怖くて仕方なくて、今すぐにでも元婚約者にすがってしまいたかった。でもそれは彼女の誇りと小さなオデットを思うとできない。
「寒くはありませんか」
「ないわ……」
オデットはダリアの花咲く都の様子をガラス越しに定まらぬ瞳で眺めて、孤独の底に漂っていた。本当なら、今頃クリスティーヌたちは『青の王国記』の聖地、ナスールの浜辺でムール貝のトマト煮を食べていたはずだ。「ちょっと辛いけどとっても美味しいの」赤毛の王女が笑顔の記憶はまだ新しいのに、今は見る影もない。
「クリスティーヌ、ごめんなさい。あなたまで巻き込んでしまったわ」
「何がですの?」
「私のことは気にしないで帰ればいいわ。メイドもみんな消えたしまったのにあなたばかりが残っている。本当ならもっと早くに私から言うべきことだったのに、ごめんなさい。勇気がなかったの」
「その必要はありませんわ。どうせそんなことを言われたって、わたくしは殿下の元を離れたりしませんし、わたくしには帰るところなどないのですから」
クリスティーヌは彼女の髪が窓の外から見えないように白いモスリンのモッブキャップで包んでやると、三つ編みに結んだ自分の髪をハサミで胸の高さで切り落とした。
「クリスティーヌ! 何をしているの!」
「リッド城まではかなりの道のりですわ。暴徒が馬車を狙わないとも限りません。赤毛はフローラでは珍しいので、わたくしの髪をとりあえずくくりつけて遠くから分からないようにしましょう」
貴婦人は目を赤らめる。クリスティーヌはその不安げな背を撫でた。城壁に囲まれたリッド城。クリスティーヌは一度そこを見たことがある。悪魔の鳴き声と呼ばれる風の音が谷を駆け、石を積み上げた城に吹き付ける。一人では到底耐えることができない場所も二人ならきっとなんとかなる。
しかし、当面の問題は群衆である。
ダデールがフローラを侵略したと思い込んでいる民衆は、怒りを小さな王女に向けている。護衛がいるとはいえ、それは万全ではなく、時折飛んでくる石と罵声に二人は体を小さくするのである。
「ごめんなさい」
オデットはクリスティーヌの短くなってしまった髪を惜しんだ。短くなったとはいえ、まだ胸のところまである。髪を結おうと思えばできる長さだ。
「これでお揃いですわ」
王女の髪にクリスティーヌはリボンで丁寧にプラチナブロンドの髪を巻きつけて縛った。そしてプッと笑った。
「何よ」
「やはり、王女は赤毛の方がお似合いですわ」
「どう? 見せて」
鏡を覗き込むオデットは自分でも吹き出した。
「白いイタチみたいだわ。滑稽ね」
「まぁ、うさぎだとわたくしは思いましたわ」
「嘘ばっかり、笑っていたいたじゃないの」
窓に卵がぶつかった。オデットがそれにも笑った。それは暗い気分と空気を払拭させようとする王女の必死の抵抗ではあったけれど、泣いているよりずっといい。いくらでも投げてみろと心の中で言って歯を食いしばるである。
「お疲れでしょう。膝を枕に少しお眠りください」
クリスティーヌは少女の頭を膝に乗せ、その肩を赤子にするように優しく叩いてやる。しかし、しばらくすると馬車は大きく揺れて止まった。
護衛兵たちの怒鳴る声がして、窓の外を見れば田舎道に六十名ほどの農民が農具を持って集まっていた。待ち伏せしていたようである。ダデールとフローラは隣同士であるので、長い年月の間に蓄積された怨恨があり、王は愛国心を煽る政策をとっていることもあり、簡単に人々はダデールに対して敵意を向けるのである。
「殿下。護衛官がいるのですから大丈夫ですわ。伏せていてください」
クリスティーヌはそう言ったものの、群衆の数に恐れをなしている兵士たちがおよびごしなのが見て取ると、それが王女に見えないように上から覆いかぶさるようにした。
——アラン。
彼女は愛する人の名を心の中でつぶやいた。
こんなことなら、好きだと言っておけばよかった。
意地なんか張らずに言ってしまっていれば、アランからも好きだと言ってもらえたかもしれないのに。
馬車のドアが激しく揺れた。クリスティーヌは慌てて鍵をかけ、必死に抑える。
「クリスティーヌ!」
「しっかり押さえるのです!」
「無理よ!」
王女が押さえていた側の窓が割られ、男たちが手を伸ばして馬車からオデットを引きずり出そうとする。クリスティーヌはそれを引き戻し、持っていたハサミで応戦したが、か弱い二人では限界というものがある。オデットもクリスティーヌも来たる死を覚悟した。
——もうだめ。
クリスティーヌの髪が掴まれ割れたガラスで頬をわずかに切った。しかしその時、ざわめきが聞こえたかと思うと、軍で使うマスケットの音が空に響いた。王女が振り返った。
「アランだわ!」
「まさか!」
クリスティーヌも振り返った。エメラルドグリーンの上着を着て、短銃を片手にしているのは、まさしくアランである。軍馬にまたがり、二十名以上の兵士を連れているのも心強い。そこに近衛隊によって再び警告の銃声が青天に鳴り響くと、暴徒は、波が引くように馬車から離れていった。
アランが高々と勅書を天に掲げる。
「王命である! ダデール王女オデットを都に速やかにかつ丁重に護送せよ。王女に手出しするものがあれは極刑に処する!」
近衛武官の掲げる王家の紋章のついた旗が、アランの言葉が真実であることを告げていた。馬車を遠巻きにしたまま石のように動かなくなった民に焦れたアランは、「王命である!」と再び叫び、銃を天に向かって銃を撃つ。
「ここにとどまるものは捕らえる!」
断固たる声で言えば、農民たちは蜘蛛の子を散るように一目散に逃げていった。武器がわりにしていた鋤(すき)や鍬(くわ)は地面に放置され、危機から脱した護衛兵士たちは汗の滲んだ額を拭いた。
「助かりましたわ!」
「よかった、よかったわ、クリスティーヌ!」
クリスティーヌは緊張の糸がほぐれ、オデットと抱き合いながら互いに感謝した。そして彼女がずっと会いたかった人が馬車のドアを開けた。
「大丈夫か?!」
「アラン!」
「クリスティーヌ」
「…………」
クリスティーヌは、馬車に飛び入ったアランを見て笑った。彼が抱きしめているのは、クリスティーヌではなくクリスティーヌの髪の付け毛をしているオデッド王女である。緊張から解放されたのもあって我慢できずに声を声をあげて笑った。
「アラン、それはオデット王女ですわ」
「え?」
「私よ」
「え?!」
王女も笑う。アランは自分の胸の中の人がプラチナブロンドなので訳が分からずクリスティーヌを見た。そしてその髪が短くなっているのを見ると得心したのか、彼女の勇気を讃えるかのように頷いてくれた。
「もう安心だ。ダデールとフローラの誤解は解けた」
「本当? では戦争は? 戦争はどうなったの?!」
「ああ。戦争は回避される。ダデール王からの書状を王に届けたんだ」
「よかった」
下車したクリスティーヌはアランに熱い抱擁をした。そしてそれはまるで自然なことのように二人は人目も憚らずにキスをする。生きている喜びと再び会えたことの奇跡を何度も確かめ合いながら唇を重ねれば、今までずっと我慢してきたことがバカらしくなるほど愛は近くにあった。
「好きだ、クリスティーヌ。君を失ったらどうしようかと気が気ではなかった」
「わたくしももう一度会いたくて。会いたくて.......」
涙が溢れ、一人で抱えていた重石をクリスティーヌは初めて告白した。
「怖かったのです。恋がよく分からなくて、あなたに惹かれてしまうのが怖くて、わたくしの存在があなたの負担になるのが怖くて、ただただ怖くて、酷い言葉であなたの告白を冷たい言葉で否定してしまったのです、ごめんなさい」
アランは短くなったクリスティーヌの髪を愛おしむように透くと、宝石のような涙の雫を人差し指で掬った。
「君の気持ちも立場も分かっていた。王女の件でどれだけ俺が不快な目に合わせていたかを考えれば、受け入れてもらえないのは当然だった。でももう王女との婚約は無くなった。ヴァレリー殿下から直接、『二度と会いたくない』という言葉をちょうだいしたんだ。だから、もうなんの障害もない」
クリスティーヌはアランを再び見上げた。その唇が接吻を強請っているように見えたのだろうか、男が背を抱きキスをする。クリスティーヌは懸命に自分も好きだと応えたくて、踵(かかと)を宙に浮かせ、やがてつま先が震えても恋することをやめなかった。
——苦しい。
クリスティーヌは胸の奥で痛みを感じた。
でもそれは辛くて痛むものではなくて、恋の甘さゆえの痛みなのだ。
強がってごめんなさい。
いいさ、それが君のいいところなんだから。
ずっとあなたの名前ばかりを呼んでいたの。助けてアレンってーー。
知っている、だからほら、ちゃんと来ただろう?
言葉にしなくても唇が語ってくれていた。
「クリスティーヌ、俺と結婚して欲しい」
「結婚?」
「ああ。両親はちゃんと説得する。母はあんなだけど、ちゃんと話せばわかるはずだ。だから『うん』と言って欲しい。生涯何があっても君を愛すると誓う」
「アラン」
「さぁ、『うん』と言ってくれ」
この先、いっぱい問題はあるだろう。。
でも後悔は一度きりでいい。
先を考えて躊躇していたら何も始まらない。なら、今は自分の気持ちに正直でいよう。
クリスティーヌは
「ええ、喜んで」と微笑んだ。
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