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3 残念なイケメン
クリスティーヌはアラン・ルルーレーヌ子爵の屋敷の居間でホットミルクのカップを祈るような形で持っていた。指先が温かい。
「寒くないか」
クリスティーヌも河に飛び込んで死のうとしていたと誤解しているアランはとても優しくひざ掛けを手渡してくれた。北方のダデール製の織物だろう。頬ずりしたくなる柔らかさである。
「大丈夫ですわ」
そう答えても、大理石の暖炉に惜しげもなくまきが焼べられ、蒸気するほど部屋は温められた。しかしクリスティーヌは粗末なドレスを見せたくなくて上着を脱がなかった。暖炉の上を見れば、鏡の中にクリスティーヌの疲れ切った顔があった。大きなモケット地のソファーに座る姿はまるで拾われた野良猫のようである。
しかも置き時計は十二時少し前を指している。人の家を突然訪問するにはいささか遅すぎる時間であるし、ここは公爵の屋敷ではなく、子爵が一人で住んでいるのだというのだから、レディとしてどうだろう。豪華すぎる室内に、クリスティーヌはいたたまれなかった。
「レディ・デラフォン」
ルルーレーヌ子爵は、彼女の座る長椅子の前に膝をつくと、その手を取って懇願するように言った。
「どうか俺をお助けると思って俺と婚約してくれ。いや、恋人のフリだけでいい。『妖精』がこの世に存在するというだけを証明してくれればそれで十分なんだ」
「そんなこと言われてもーー」
「これは双方にとって損のない話だ。お互い死のうとまで考えたのだから、できないことなどないはずだ。俺は暖かい部屋と食事、そして不自由のない生活を提供する。あなたは俺の横で黙って微笑んでいてくれればいい」
「子爵、困りますわ」
「アランと呼んでくれ」
「アラン、わたしは田舎者ですし、社交界デビューもしていません。どう振る舞ったらいいのかさっぱりわからないですし、父のことがありますでしょう? 人の噂の真ん中に立ちたくないのです」
「俺の『妖精』も社交界デビューしていないし、彼女は『ちょっと事情がある』家の娘ということになっているのでご心配はない。人の噂になるのは嫌だとおっしゃるが、これからどうするおつもりなのか。まさか家庭教師にでもなって生活するつもりではないのだろう? それこそ噂になる」
クリスティーヌは黙り込んだ。まさにそのつもりだった。
「レディ・デラフォン。きついことを言うかもしれないが、良家では金銭に問題のある人を雇いたがらないものだ。何かを盗まれたら大変だからね。俺とのことは仕事だと考えてはくれ。それなりの報酬は支払うし、これはほんの数ヶ月のことだけでいい」
アランは婚約を解消するのは、自分の責任、つまり浮気が原因だと世間には告げるから、クリスティーヌの名誉は必ず守ると約束してくれた。しかし、彼女はなかなか諾とは言わなかった。そんなこと『神様はお許しにならないわ』と信仰心を盾に頑張っていたのである。それでもお腹がぐうっとみっともなくなって、アランが「これは気付かずに失礼をした」と馬鹿真面目に料理を運ばせれば、帰ろうと思っていた腰を再び落ち着かせてしまうのだった。
「こんなものですまない。レディ・デラフォン」
「クリスティーヌですわ。そう呼んでくださって結構です」
「クリスティーヌ。さあ、遠慮しないでくれ」
出されたのは牛肉とひよこ豆の入ったスープだった。よく煮込んだ肉は噛まなくてもいいぐらいやわらかく、ひよこ豆は思いのほか甘い。三日ぶりの食事である。クリスティーヌはスプーンを口に入れたままたぽろぽろと涙を流した。スープ一杯がこんなに暖かいとは今まで思いもしなかった。父が借金をしてから、世間は冷たく、実の叔父叔母までも彼女に一フレンの金を恵むのも惜しんだ。それを思うと、見も知らぬ人にこうも優しくされるのは、涙が出るほど嬉しい。
「レディ・デラフォン? どうした?」
突然、泣き出したクリスティーヌの顔をアランが慌てて覗き込む。
「申し訳ありません。ただ、久しぶりに食事したものですからーー」
「口には合うか......」
「美味しいです」
「それは良かった」
微笑したアランは妄想癖があると言うのを加味しても、紳士に見えた。ハンカチを握らせてくれる大きな手も男らしく、父以外の異性に親しく接したことのない彼女はすぐに赤くなってしまう。クリスティーヌはほだされ始めた。
「それで? 『妖精』はどんな人なのですか」
「そうだな。歌うことが好きで、竪琴を奏る」
「それで?」
「ほっそりとした腰に小さな足、ダデール語が話せる才女だ。奥ゆかしいところがあるのに芯が強く、純真で疑うことを知らない。ああ、犬より猫が好きだよ」
「それで?」
「美しい人だ。笑うとバラが咲いたようになる。人柄がその笑顔に現れるんだ」
クリスティーヌは苦笑する。まあ、よくもそこまで作り上げたものだ。そんな完璧な人間がいたら見てみたい。『妖精』役を頼まれている自分は、都に来たばかりのお上りさんで言葉にも鈍りがある。可愛いと言ってくれる人はいても、決して美人だとは言われない。趣味も洗練しているとはいいがたく、明日の午後に人に会うようなドレスもない。
「でも着て行くものもないし、無理ですわ」
「着るもの? それなら心配ない」
『アナ、アナ』とアランは太っちょの女を呼んだ。どうやら女中頭のようで、『おぼっちゃま』と寝起きにもかかわらず、嫌な顔もせずに出て来た。
「『妖精』のドレスを持って来てくれ」
「どのドレスでしょうか」
「どれでも全部だ」
なんだか嫌な予感がクリスティーヌにはした。そしてその予感は的中した。アナと呼ばれた女中はデイドレスを十五枚も持って来たのだ。今年流行のストライプやバーガンディ。妖精チックなブルーや若草色のクラッシックなドレスもある。どれも今年の社交界シーズンのために誂えたものにしか見えない。
「本当に『妖精』はいないのですか......。どう見ても『妖精』さんは存在するように見えます」
「これは、その、本当に『妖精』が存在するかのように装うためで、彼女には事情あって俺がドレスを用意しないといけないと言う設定であるから……」
アラン・ルルーレーヌ子爵は決してどんな女にも本気にならない。遊んでもぽいと捨てられると言うのは、変態的理想主義者だったからなのだ。クリスティーヌはひどくがっかりした。しかしそれと同時に、ここまで徹底して変態であることに尊敬の念も抱く。
「シーズンごとにドレスを作るのですか」
「ま、まぁ。そうだ」
残念な美男子(イケメン)。親が心配して政略結婚させようと思うわけだとクリスティーヌは思った。
「レディ・デラフォン、実はアナ以外の人には見せたことがないんだが、『妖精』の部屋があるんだ。掃除も自分でしている。恥ずかしいけど、無理を頼むのだから見てもらいたい」
アランは彼女の手を自分の腕に置くと、マホガニーの階段を上って二階にある『妖精』の部屋へと連れて行ってくれた。メイドの立ち入りも拒むように鍵がかけられている。
クリスティーヌはきっと、『妖精』の人形があるのだと思った。しかし、意外にもそこには具像的なものはなく、クローゼットにあふれんばかりのドレスや装飾品、そして本があるだけの少女趣味の部屋である。曲線の美しいソファーは水色の絹地。猫のランプに猫の磁器の人形が飾られ、そこかしこに『妖精』のための生花が飾られている。
「愛していらっしゃるのですね......」
アランは答えなかった。いい大人の男の趣味ではないのをよく知っているのだろう。性癖とまでは言わないけれど、ドールハウスを飾って楽しむのは紳士の遊びではない。無言でどうしたらいいのかわからないと立ち尽くしていた。クリスティーヌはそれが捨てられた犬のように見えて気の毒に思えてならなかった。仕方なしに翡翠色のドレスを手にとって見るも少し大きい。直す時間はないだろうから、これでは間に合わないだろう。
「気に入ったか」
「ええ......」
「クリスティーヌ。もし、引き受けてくれるのなら、報酬の他にもここにあるものは全て君に差し上げよう」
象牙の扇を渡されたクリスティーヌ。ひらけばバラが描かれており、金の要(かなめ)から赤い房が垂れている。そしてかすかに甘いローズが漂えば乙女心は踊った。クリスティーヌは心の中で十字を切った。『神様、わたくしをお許しください』もうこうなれば、大悪魔アラン・ルルーレーヌ子爵の思うツボである。
「見てくれ、この真珠のネックレスはダデールから取り寄せたんだ。向こうでは流行っているらしい」
「そ、そうですの?」
クリスティーヌはネックレスも受け取ってしまった。
「ほら、これは俺が君に初めて送ったサファイヤの指輪だ」
だんだんと子爵は妄想の世界に入り込み、クリスティーヌは金欲にまみれ出した。お互いの利益は一致している、確かにその通りである。子爵の求める女性の容姿は、クリスティーヌに極めて近く、クリスティーヌも子爵が用意したドレスを気に入った。
「覚えている? これは俺が君に初めて出会った時に君がつけていたブローチ」
まぁ、いささか、心配であるが、クリスティーヌは象牙の扇と真珠のネックレスに魅せられてしまった。どうせ、橋の下で暮そうと思っていた捨てた人生である。こんな人に出会ったのもきっと『神様の思し召し』だ。
そして彼女はふと本棚を見た。
同じ本ばかりがいくつも並んでいる。
「あの、これは?」
「あ、ああ。実は『妖精』にはモデルがいるんだ」
アランは丁寧に油紙で包まれた本を開いて見せたダデール語で『青の王国記(ブルーキングダム) 勇者の秘密』とある。クリスティーヌは即座に理解した。この人は本の世界(にじげん)の女性に恋した熱烈な読者(オタク)であると。
「名前だけは知っています……ドラゴンとか出てくる幻想小説でしょう?」
「これは読む用だから、よかったらどうぞ。『妖精』のモデルの名前はフェアリーという」
観賞用、保存用、読む用があるらしかった。「まぁ、ありがとう……」とちょっと微妙にクリスティーヌは答えたが、アランは嬉しそうに微笑む。なんだか可愛く思えてきたか不思議だった。
「でもね、アラン、このドレスは残念だけど大きすぎますわ」
「心配ない。まだ時間がある。うちのアナの手にかかれば、そうだろ? アナ」
「......」
無理を言われた太っちょおばさんは渋い顔をして、『ぼっちゃま』に抗議していたが、「仕方ありませんね、ぼっちゃまのためですから」とお腹を頼もしくポンと叩いて見せた。人の良さそうな人である。
「腰はコルセットをあまり締めなければいいでしょう」
「『妖精』よりも腰の細い人がいたんだな」
「わたくしは小柄なだけですわ」
一番、体に合うドレスを選ぶと、袖の長さを直し、胸周りを詰めればいいということがわかった。クリスティーヌは、あとはアナに任せて、『妖精』の部屋にある天蓋のベッドに飛び込んだ。いい匂いのする布団に何日も洗っていない髪のままで寝るのは罪悪感があるが、もう何もする気力もない。
――明日には明日の風が吹く。それでいいわ。
クリスティーヌはあっという間に眠りについた。
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