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4 臭いを嗅がないでください
アランは『妖精の部屋』の前で行ったり来たりしていた。そろそろ支度のためにクリスティーヌを起こした方がいいかもしれないと思っているが、ノックができない。
彼女に初めて会った時、アランは衝撃で橋から落ちそうになった。美しいプラチナブロンドにしろ、白い肌にしろ、柔らかに笑うその雰囲気にしろ、彼が長らく妄想して創り上げていた『妖精』そのものだった。
――起きてこない。もしかしたら、逃げたのかも......。
アランとてクリスティーヌにずいぶん無理なことを頼んでいるのはわかっている。そして自分の趣味があまり大きな声は言えないようなものであることも。
彼は美男であるし、おしゃれにも気を使う。女ばかりの家に生まれたからエスコートもうまい。おかげでご婦人方にはモテる。でもどうしても現実の恋ができず、好きだと告白されて付き合ってもすぐに別れ、また付き合っては別れの繰り返しの末、アラン・ルルーレーヌ子爵は『女嫌い』とか『人の心を弄ぶひどい人』とか『遊び人』とまで噂されるようになってしまった。本当のアランはただの読書家(オタク)でしかないのに。
自分の趣味について告白した時、美しい人はかなり『ドン引き』をしていた。しかし、それを口にはせずに、話を聞いてくれた彼女の心の優しさには、まだ付け入る隙が、いや、頼み込む希望がありそうだった。
その時、ドアのノブがやけにゆっくり回り始めた。ドアが音も立てずにそっと五センチほど開いて翠の瞳が左右を窺う。
「おはよう、クリスティーヌ」
「お、おはようございます」
ばつが悪そうにドアを開けたクリスティーヌは昨日と同じドレスを着ていた。さっとバッグを隠したところを見るとやはり逃げるつもりだったようだ。
「あの、ずっとそこに?」
「いや。今来たところだよ」
無論、ずっとここにいた。聞き耳も立ててイビキも聞いた。昨夜は酔って錯乱していたから我を忘れていたが、クリスティーヌは決して『妖精』ではない。ドレスはセンスがないし、泣いても寒くても鼻水も垂らす。借金取りに追い回されたせいか、オドオドしているし、二言目には『神様』を口にする。
「クリスティーヌ。俺を助けてくれるのだろ?」
「え? ええ......」
「そう約束しただろう?」
そんな約束を取り付けていないが、アランは強気に開いたままの戸を彼女の頭上で閉めた。結果、閉じたドアと男に挟まれてしまったクリスティーヌはドギマギとして身を小さくするのだった。
「クリスティーヌ。頭から雑巾のような臭いがするよ」
「あ......」
「さすがにこれは洗った方がいい。臭すぎる」
アランは恥ずかしがるクリスティーヌの頭に自分の鼻をつけた。堪え難い臭いである。
「あの、あの、臭いを嗅がないでください」
「恥ずかしいなら、風呂に入ってくれ」
「入りますから、少し離れてください」
「臭う」
「離れてください。お願いします」
クリスティーヌは真っ赤になった。そして手を握って『ああ、神様』とこれくらいのことで助けを求める。なんと素直な反応だろう。アランはメイドに彼女を指差した。
「完璧にしてくれ。特に頭をな」
「はい」とメイドが四人腕をまくってクリスティーヌをバスルームに連れていった。そして聞こえてくるのは「あの、あの、ええっと、そんなところ、触らないで。あ、やめてください。恥ずかしいです。ああ」とドアの前で聞くには耐え難い声である。シラミはいないだろうが、あの臭いを取るのに頭を洗うのに一度や二度では足りない。バスルームでのクリスティーヌとメイドの格闘は一時間にも及んだ。
「いかがでしょうか」
まだ濡れたままの髪のクリスティーヌをメイドが連行して来た。アランは頭の臭いを嗅いだ。
「まだだ。もう一度洗ってくれ」
髪の間からクリスティーヌが目を信じられないと見開いた。もちろん、もう臭いなどせず、ただ美少女を辱めたかっただけである。そういう嗜虐的嗜好も彼にはあった。
アランは『妖精の部屋』の長椅子に置かれたドレスと帽子を見た。『いつまでこんな人形遊びを続ける気だ!』そんな風に父母に怒鳴られた十代を思うと、このドレスが日の目を見るのは感慨深い。アランはチェストを開いて中にあるべっ甲の髪飾りを手に取り、そしてシルクの手袋を取り出した。今から、クリスティーヌを完璧な女性『妖精』に変えなければならないと決意する。これはアランにとって偉大なる『青の王国記』に対する挑戦だった。
「若旦那様」
その時、執事がドアをノックする。
「何か用か」
「ご来客です」
「来客? こんな早い朝に? まだ日が昇ったばかりじゃないか」
「ジョルジュ様です」
名前を聞いてため息が出る。
「ここに連れてきてくれ」
ジョルジュ・トレーラン伯爵子息は、アランの数少ない友人で、『青の王国記』シリーズの熱烈な愛好者でもある。ただ、ジョルジュは『青の女王』という登場人物を愛しているので、アランとは趣味が被らない。はずである......。
アランは呼吸を整えた。ついに『妖精の部屋』の封印は解かれるときに来たのだ。『青の王国記 勇者の秘密』に出てくる『フェアリー』の部屋を忠実に再現したこの部屋を見たとき、ジョルジュはどう反応するだろうか。そしてクリスティーヌを見たとき、彼はなんというのだろうか。どうせよくは言わないだろうが、今はそれを恐れているときではない。ジョルジュの助けが今は必要なのだ。
「若旦那様、ジョルジュ様です」
「入ってくれ」
ドアが開いた。
ジョルジュは居間ではなく、私室に通されたことを不思議そうだったが、すぐに目を丸めて大きく両手を広げて言った。
「最高だよ、アラン。これこそまさに『青の王国記』の世界だ」
彼が絶賛するなどあり得ない。もちろん、言葉には続きがある。
「君がまさかここまでのむっつり愛好者だったとは知らなかった」
毒舌はいつものことだ。見た目は好青年なのに口は悪い。世間では『ちょっと気取ったやつ』と思われている銀行家の息子である。金が沢山あるので大した美形ではないのに、女に困ったことはない。長椅子に座って猫のランプを「挿絵通りだ」と撫でる。
「それでなんの用だ? 俺は今日、人生最大に忙しい」
「用って、君は昨夜、僕のパーティーを『俺は死ぬ!』と言って出て行ったっきり戻ってこなかったじゃないか。心配して見に来たんだよ」
「ああ、そのことか。忘れていたよ」
「僕は君のことだから、あのブサイクで根性悪王女と結婚するぐらいなら本当に死んでしまうかのではないかと心配していたのに、思ったよりも元気じゃないか。またいつもの通り『妖精』に現実逃避か?」
「俺は確かに昨日、君の言う通り死のうと思った。でもね、これはあの人の言葉を借りれば『神のご加護』があったものだから、『妖精』と運命的に出会うことができたんだ」
「なんの話だ? いつから神を信じるようになった?」
「クリスティーヌ。入って来てくれ」
アランは続き間のドアを開けた。
プラチナブロンドの少女が若草色のドレスを着て立っていた。花冠や羽がなくとも、まさに森の精霊といった神秘的なオーラを漂わせ、ジャスミンの香に包まれている。垢で黒ずんでいた首や頬も綺麗に洗い落とされて磁器のお人形のようでもある。あとは髪を結い、化粧をすれば完成である。アランもジョルジュもその美しさにしばらく言葉が出なかった。
「アラン、ついに君はあまりに体が寂しくて蝋人形を発注したのか!」
「人形じゃない。ちゃんと生きている」
クリスティーヌは結っていない髪を恥ずかしそうしながら咳払いをした。アランはすかさず彼女の横に立ち、その腕を組むと、昨夜から何度も練習していた言葉を口にした。
「紹介しよう。俺の恋人の『妖精』こと、クリスティーヌ・デラフォン男爵令嬢だ」
「おい、『妖精』はお前の妄想の産物だったのだろう。僕も会ったことがある設定じゃないか。今年の夏は一緒にダデールに避暑に行ったし、先週は彼女の領地の田舎に二人で行った」
「今、会わせた。設定調節完了。それでいいだろう」
「『妖精』は君の妄想の恋人だ。どうやってこのレディを見つけて来た」
「昨夜出会ったんだ。テレー河の橋の上で」
ジョルジュは帽子をかぶった。
「どこへ行く」
「俺も『女王』を探しに行ってくる。もしかしたら僕を待っているかも」
「おい!」
アランは慌ててジョルジュの腕を掴んで止めた。
「助けてくれ」
親友が振り向いた。
「父に今日、クリスティーヌを紹介するんだ。そして来週の舞踏会に彼女を連れて行きたい。でもクリスティーヌは本当の恋人ではないからボロが出るかもしれない。頼む。助けてくれ」
切実なアランの懇願にジョルジュが仕方なさそうに帽子を脱いだ。
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