38人が本棚に入れています
本棚に追加
6天使の歌声
馬車が踏み入れた公爵邸は邸ではなく、もはや宮殿だった。
噴水のある前庭には対称に作られた生垣の迷路があり、庭師が数人掛りでその伸びた小枝を一つ一つ切り落としている。建物は白い石の三階建てのバロッグ様式。窓の数だけ見てもその室数の多さは想像できる。クリスティーヌは息を飲んだ。
「すごいところのお坊ちゃんなのね、カボーチャ子爵は」
「え?」
「いいえ。なんでもありませんわ」
馬車からおり、重厚なドアが執事によって開かれる。メイドが十数人並んで三人を迎え、きらびやかな大理石の床は鏡のように輝いていた。クリスティーヌは自分の靴音がホールに思ったより高く響いて、足を忍ばせるとアランの背に隠れた。
「父上、母上、恋人のクリスティーヌ・デラフォン男爵令嬢です」
「どうぞクリスティーヌとお呼びください、公爵」
出迎えてくれたのは公爵夫妻だった。
モスグリーンのマントと若草色の帽子を脱いで挨拶したクリスティーヌにアランの父は瞠目し、艶やかなプラチナブロンドから目を離せない様子。当然、公爵は『妖精』が存在していないと思っていたらしいかった。息子が生身の人間を愛していたと知ってその頬は少し緩みかけたが、デラフォンと聞くとすぐに眉を顰めた。
何しろ、クリスティーヌの父は破産し、家族は離散、ようやく領地を処分して金を返した話は笑い話としてフローラに広まっているから、当然そういう反応になるだろう。覚悟はしていたものの、あからさまにされると彼女は自分が急にみすぼらしくなって顔を暗くする。
「好きなだけ滞在してくれ」
公爵は明らかにデラフォンを歓迎していなかった。儀礼的に挨拶しただけで居間での団欒に誘うこともなく、書斎に引っ込んでしまい、母のフーリエが困った顔で茶に誘った。
案内された居間にはハーブやチェンバロが置かれ、キャンドルスタンドは金である。大きなシャンデリアが天井から吊るされ、光を四方に放つ。もう広すぎて腰を落ち着かせるどころの話ではない。ただでさえお芝居をしにきたと言うのに、これでは緊張で物も言えない。クリスティーヌは言われるがまま、ちょこんとソファーに座った。
「ねぇ、クリスティーヌ。竪琴が得意と聞きました。よかったら聞かせてもらえませんか」
フーリエがそう言った時、場の空気が緊張した。ガタガタとクリスティーヌの足が震え、それをアランが丸テーブルの下で押さえつけるようにして止めた。
「あの、あの、わたくし、あまり上手ではないのです」
「でもアランはーー」
すかさずジョルジュが間に入った。
「アランは何事にも大げさなんです。特にクリスティーヌのことになると盲目ですからね。それほど上手ではありませんよ」
「そうなの?」
フーリエが首をかしげた。
「では、確かクリスティーヌはダデールに住んでいたことがあるのよね。都に住んでいたの? それとも郊外? 私も昔住んでいたことがあって――」
「母上、クリスティーヌはダデールに住んだことはありません。それはただの噂です」
「あら? そうでした?」
母親のフーリエは困惑した様子だった。あれこれと聞くと息子が不機嫌になり、その恋人がオロオロとするのだから当然だろう。
「なんだか聞いていた『妖精』さんと違うのですね」
勘がいいのか、フーリエは痛いところを突いてきた。
「歌も上手いと聞いていたけれど、それも違うの?」
フーリエがそう聞くと、クリスティーヌは汗をかいた。『妖精』が得意としていることで彼女ができることはただ一つ、歌うことである。確かアランの得意分野にはチェンバロと書いてあったはずだ。ならば伴奏ぐらいお願いできるはず。
「アラン。一緒にどう?」
アランは『そうだね』と微笑見ながらも、クリスティーヌの足を思い切り踏んで『やめろ』と合図する。しかし、「何か聖歌を」と言えば、弾ける曲が思いついたのだろう、席を立ってチェンバロに座ると譜面を広げる。大丈夫よ。そうアランに伝えたくて、クリスティーヌはチェンバロの椅子に座る彼の肩に手を乗せた。
「用意はいいか?」
「ええ」
二人は目を合わせて出だしを合わせた。見つめ合う目と目。肩に置かれた手。それは傍目から見れば、恋人らしく見えたことだろう。しかも天使が降臨してきたかのようなクリスティーヌの澄んだ声が、高い天井に響き渡たるとジョルジュとアランだけでなく、フーリエも思わず感嘆の声をあげうっとりと聞き入った。そう『妖精』は確かに存在したのだ。
そしてアランとクリスティーヌは初めてとは思えないほど息があった。抑揚のある声はアランの弾く硬質な音と良く合って二人は自然と微笑みながら歌い、演奏していた。
「まぁ、なんて素晴らしいの」
「どうです? 俺の『妖精』は」
「心が洗われるようでしたわ」
フーリエは胸に手を当てて感動を表していた。しかし、アランがここに来た理由である王女との婚約の白紙について切り出すと彼女の顔は急に渋くなった。
「母上、クリスティーヌこそ俺の妻となるべき人だと思っているのです。どうかヴァレリー王女との婚約を断るよう父上を説得してください」
「アラン、既に宮廷府から申し出があった話ですのよ? 王のご内意をどうして断ることができましょう」
「まだ公表されたものではありません」
「ヴァレリー王女も喜んでいると聞いています。クリスティーヌにはかわいそうですけれど、これはもう決まったようなお話なのです。来週の舞踏会にはきっと話題に乗るはずです。もう遅いのですよ」
「母上。今日までに『妖精』を連れて来れば破談にしてくれるという約束ではありませんか」
フーリエは息子を無視してクリスティーヌの手をとった。
「ごめんなさいね、クリスティーヌ。これはあなたが嫌いで言っているのではないの」
「はい」
「ただ、これは家と家。身分と釣り合いの問題なのよ」
フーリエはまるで物事の道理を諭すかのように優しく言った。その言外には、『あなたとうちでは釣り合いが取れないの。わかるかしら?』そう言っているのである。
クリスティーヌはがっくりとした。しかしそれはフーリエに見下されたからではない。『妖精』が存在すると知ればすぐに喜んで王女との結婚をやめてくれるとばかりに思っていたのに、フーリエはこれとそれとは別だと割り切っている。しかも、クリスティーヌの瞳から逃げるように『来客の予定があるから、そろそろーー』と帰って欲しそうな素ぶりさえするのだから、これは手強い。
「ではこれで失礼しますわ」
「ええ。お構いもできずに、ごめんなさい。ああ、アランはちょっと待って。お父様も話したいと思っているはずよ。クリスティーヌのことはジョルジュが送って行ってれるはず。そうよね? ジョルジュ?」
結局、クリスティーヌはジョルジュと公爵邸を後にした。気を落としている様子だったからか、馬車の隣に座っているが、彼女の手をとって慰めてくれた。
「気にすることないよ、クリスティーヌ。公爵夫人は君の人柄に気づいていないだけだ」
「どうしたらいいのかしら」
「来週の舞踏会に僕がエスコートしよう。そして社交界中の有力者を紹介してあげる。きっと君はフローラ一の人気者になるよ。公爵夫人は後で後悔することになる」
クリスティーヌは、吐息をした。
「そうではないわ。わたくし、公爵夫人が気に入ってくださるなんてはじめから思ってませんでしたもの。ただ、婚約が白紙にならないと、あてにしていた約束のお金は入らないし、今夜、子爵の家に泊まることもあの雰囲気ではできないでしょう? どこかいい宿屋を知っていません? 困ってしまうわ」
ジョルジュが『なんだそんなことか』と笑った。
「知っているとも。アランより君を愛してやまない人間がいるのをね。そこに泊めてもらえばいい。うまくいけば、仕事にもありつける」
アランがウインクをした。
最初のコメントを投稿しよう!