恋心とうらはら

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 か細い声で発するとまた、中田さんは目を丸くする。何をそんなに驚いているのか分からないが「さて、行きましょうか」と声をかけた。もう一度、中田さんの恋人のほうを確認すると、恨みがこもった視線を向けられたままだ。 「恋人の方に恨まれてしまいますわ」 「なーに、大丈夫ですよ」  中田さんは呑気に言い、屋敷へ戻ろうと促す。  これから屋敷へ戻ったら、母に怒られること、調理人の邪魔をしたことについて厳しく説教されることは、覚悟しなければならない。憂鬱であるものの、今は少し心も踊っていた。お付きの者以外の方と、こうして歩くのは初めて。先ほど束の間だけ、一人で外を歩けたことに大きな喜びと興奮を感じていた。 「あの、貴方は沢野子爵とお知り合いなのですか?」  中田さんは庶民の書生だ。ふと疑問が浮かんだ。むね子嬢のお兄様のことも、沢野子爵のことも存じていた。庶民が何故知っているのだろう。
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