その木の名は?

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その木の名は?

 「私が何かしたのでしょうか?ただそこに植えられただけの私を恨まないでください」 その木は生まれ育つ地を選べない理不尽さに微かに身を震わせ、薄紅色の花弁を散らす。かつては大勢の人の名誉の証だった。 その木は眉を片方釣り上げて吐き捨てる。 「沙羅双樹でも植えれば良かったんです、傲れる者は久しからず。あの裏酸素キックバックの植物派閥にお似合いです。ここだと寒くて育たないなら、夏椿でもいい。どうしてよりによって私?」 裏酸素の次の抜け道として、怪しい化粧品作りのために、雨水を奪われて枯れかけたあのハコベ、ナズナ、ハルジオン、タンポポが答える。 「悪いのは桜さん、あなたじゃないから」 「花、実、枝、根、葉の五人衆のせい」 「綺麗だよ、静かでみんなでゆっくり眠れる」 「宴があると僕らは踏み潰されちゃう」 宴のない春が続き、桜は儚く小さな草達とまどろむように眠りにつきました。喧騒や権力の象徴から解放されて、自然のひとつ、木のひとつに戻れました。気まぐれに起きて、ハコベ、ナズナ、ハルジオン、タンポポと歌を歌ったり、踊ったり。 宴のないこの四年間の桜が一番美しい。長年桜の手入れしている植木職人は、震えるように散る桜を愛しそうに見つめた。自分の腕の良さを見て貰うために、宴を再開してほしい気持ちが半分。もう半分は、安らぎを得た桜をそっとしておいてあげたい気持ちが半分。 「桜、お前は背景より主役がお似合いだ。お前の麗しさが人の醜さや欲深さ、見栄すら上手く隠してたんだな、何十年も。辛かったな…」 植木職人は人がいない庭で桜をフィルムカメラで撮った。24枚フィルムの最後の一枚を撮ろうと職人がシャッターに指をかけた。レンズが急に曇り、シャッターから咄嗟に指を離してもう一度桜の木を凝視する。 雲一つない晴天なのに、桜の花弁から雨粒が滴り落ちた。見間違えかと職人が瞬きをすると、五月雨のように次々と薄紅色の涙を流す桜。職人はカメラのことも忘れてその姿に見とれた。 「震える花をもう少し眠らせてくれ、涙雨が止まるまで。お偉いさん、こんないい女を泣かせちゃ男が廃る、私腹肥やすより他にやることがあるだろうよ」 職人は五年目も宴が取り止めになることを祈った、桜が余りにもさめざめと泣いていたから。 (了)
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