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冷たい雨は午後には霙混じりの雨となった。夜には雪に変わるらしい。 明日朝は一面が雪景色となっているかもしれない。くれぐれも軍馬達の飼い葉と敷き藁を雪に濡らさぬよう、敷き藁は普段より厚くするようにと、気象観測部門の士官から注意喚起されている。 厩舎で馬を洗ってやり清掃に食事に馬房に敷き藁をかき寄せて。 全ての作業が終わった頃には班員全員凍えきっていた。 遅番の昼食に早足で食堂へ向かう渡り廊下を同僚の背中を追いながら、ノアとケイトリンは肩を並べて歩く。 ノアの方が頭一つ半高いので当然歩幅は違うのだが、ノアがケイトリンに合わせるのは習性になっている。 ケイトリンはかじかんだ手に意識をとらわれていて歩くのが疎かになっていた。 同僚達の背は次第に遠ざかり、廊下に二人だけ取り残されてしまう。 かじかむ赤い指先にはぁ、と息を吐きかけ擦りあわせたり曲げ伸ばししたりと忙しないケイトリンを横目で見てノアは口許が緩むのをおさえられない。 (頬も鼻も真っ赤にして。なんて可愛いんだろ。他の誰にも見せたくない) 周囲には誰もいないから、実質ノアの独り占め状態だ。頬も口許も緩みっぱなしだが仕方ない。 (あんまりにやけた顔はケイトリンに見せられないからな) 心持ち口許を引き締めつつ、ノアは気付かれないようにケイトリンの横顔を盗み見る。 ケイトリンはノアより頭ひとつ半小さい。 身体つきも華奢でまだ少年ぽさを残している。琥珀色の大きな瞳を縁取る長く豊かな睫毛、すっきりとおった鼻筋、艶々の唇は桃色。 陶器のように滑らかな白い肌も柔らかな栗色の髪も、長い辺境の兵舎暮らしで損なわれることはなかった。貴族の子弟でも肌や髪の手入れを怠りがちになる軍での暮らしは──身の回りのこと全て自分で行わなくてはならないので、優先順位の低いものから手を抜いていくようになる。女っ気の無い辺境の守備隊では肌や髪の艶よりも任務の相棒となる馬の健康管理のほうが重要だ。 ノアの知る限りケイトリンだって特別に何か──マッサージだのパックだのを行っているわけではないのだが。 華奢で可愛いケイトリンがどうして軍に入ったのかは謎でしかない。以前本人からさりげなく聞き出したところ、幼なじみと結婚するためとか言っていた。誰よりも華奢で可愛くて可憐なケイトリンを軍に放り込む女との結婚なんざ、断固阻止する。ノアは決意を新たにしたものだ。 (ホント、この辺境に行けって命じられた時は最悪だ、と思ったけど) ケイトリンと出逢えたのだ。 命じた祖母が恋の神様に思える。 (特別な何かをしなくても綺麗で可愛いケイトリン。羽根は見えないけどほんとは天使なんだきっと。うっかり天から落っこちて帰りかたを忘れて) ノアは自分が超がつくほど現実主義で利己的と自覚しているが、ケイトリンに関することとなるといわゆる恋愛脳になる。 ケイトリンの相変わらずの美少年ぶりが今日もノアの胸を高鳴らせ妄想を掻き立てる。 おかげで多少の寒さは気にならない。元々が北国生まれで寒さには強いはずだけれど。 王国北部の辺境地帯は、比較的温暖なこの国でも冬場の寒さはそれなりの厳しさがある。 それでもノアの故郷に比べれば、積雪の量も気温の低さも、児戯に等しい。 「明日は雪が積もるらしいぜ」 「やだなぁ」 ノアの言葉にケイトリンが眉を潜めた。 「部隊長とか雪中行軍の特別演習、とか言い出しそうじゃない?」 「そうだな」 前の冬期終盤(シーズン)にどか雪が降った翌朝、四時前に叩き起こされて重たい雪の中、一日中雪原を走り回らされた記憶が甦る。 水分が多く重い雪は、雪国育ちのノアも手こずる強敵だった。何せこちらの装備の防水機能がショボいから、軍靴(くつ)といわずズボンといわず雪に接する箇所から水分が凍みて来て、あっ、と言う間もなく膝下は濡れ鼠。凍えて立ち往生する隊員が続出。冷たい寒い痛いで済めばいいが下手すりゃ凍傷で最悪切断する羽目にもなると上の連中はわかっているのかいないのか。 貴族の士官連中が行動不能に陥ってようやく演習は中止になった。その日の昼食はいつもどおりの、芋と葱と、半日煮込んでもなお固い肉のシチューだったが不平も不満もなくみな完食していた。 そもそも膝まで積もる雪など数年に一度も降らないこの辺境(あたり)で雪中行軍なんて訓練するくらいなら、塹壕掘りならぬ雪洞(せつどう)掘りのほうがよほど有意義だったのにと雪国出身のノアは思う。 この時。 可哀想なことに、ケイトリンはつま先に霜焼けを作ってしまった。軍靴の防水がショボかったせいだ。ノアは軍靴の製造メーカーと馬鹿げた訓練を命じた上官と役立たずな装備を仕入れた担当者に呪いの言葉を吐いた。 この国に魔法医師はほとんどいない。普通の医師も少ない。辺境の砦の守備隊では感染症とか出血を伴う外傷以外はセルフケアが一般的だ。 ノアは霜焼けには詳しいから、とよく解らない理由をこじつけて患部に治療薬を塗ってあげる役を買って出た。最初ケイトリンは当然自分でやると断ったが、実際自分で触れるのは辛かったようで、ノアに任せてくれた。 堂々とケイトリンの身体に触れる口実が出来てノアは天にも昇る心地だった。 呪いを吐いた製造メーカーと上官と仕入れ担当者とに感謝する。 ノアの指が触れるたび顔をしかめたりくすぐったがったりしていたケイトリンの表情は宝物だ。一方で赤く腫れて痛々しい足指を見るたび自己嫌悪に陥りもした。替わってやれる手段があればいいのに、と本気で思った。幸いケイトリンのつま先は悪化することもなしに一月(ひとつき)ほどで無事完治したが。 (あの後、俺ら一介の兵士の装備も雪国仕様に変更(バージョンアップ)されたんだったな) 防寒防水断熱機能が格段にアップした新装備。それらは全て北の大国ロクスタリヤからの輸入品だ。かの国は一年の半分は国土の八割が雪に覆われる上、大陸有数の軍事大国である。この手の性能品質は他国の追随を許さない。もちろん見合う高価さではあるが。 王都軍(ちゅうおう)を通さず、この辺境砦の司令官が直接懇意にしている商人から手に入れたのだろうことをノアは知っている。そしてたぶん、軍から与えられた予算以外──司令官のポケットマネーが使われているだろうことも。 司令官はかつてこの王国の北辺を統治していた公爵家の出身だ。 ここ半世紀の間、対外戦争やら王位継承争いに端を発した内戦やらに明け暮れたで、王家を凌ぐ権勢を振るった大貴族も今や見る影もない。 それでも当時からの地縁血縁を手当たり次第手繰れば、正式な国交を結んでいない他国から必要な人もモノも引っ張ってこれるのだから腐ってもさすがの筆頭公爵家、といったところか。 そのおかげでこの冬季(シーズン)は作業時も訓練時も快適に過ごせてありがたい、とノアは鉄面皮の司令官に感謝する。元々寒さに強いノアだからがっつり防寒装備を整えてしまえば他の季節──湿気の多い夏季などよりよほど快適だ。 ノアはケイトリンの前に回り込んで立ち止まる。 「……ノア?」
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