八千日病〜時の神の呪い〜

2/8
12人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
***  応接間のソファに対峙した二人の手元にコーヒーを差し出しながら、中野はもう一度黒澤と名乗った女の顔を盗み見る。  本当に美人だ。売れっ子女優と言われても容易く信じる。彼女は三百年後の日本で研究者をしているそうだが、たとえどれだけ優秀だとしても道を誤ったと言わざるを得ない。  ふと目が合い黒澤が微笑む。カップを持つ手が狂い「熱っ」と小さな悲鳴が漏れた。  たぶん。この胸の高鳴りは、彼女が美人だからというだけではない。  未来人。これが。まるで夢みたいだ。  一人舞い上がる中野を置いて、榊はビジネスライクに言う。 「話は分かった。要するに、未来の世界で大流行している病の特効薬を開発してほしい、と?」 「ええ。その病のせいで私たちの時代人口は激減し、もはや寸刻先の滅亡を待つのみ。人類が生き残るには病を克服するしか道はない」 「三百年後の研究者が作れないものを、私に作れるとでも?」 「だからこそお願いしているのです。『一人で人類史を』と言われる、不世出の天才に」  五百年、と中野は息を呑んだ。すでに当代一の名声を得ている榊ではあるが、それすらまだ過小評価であったらしい。 「まぁ、話だけは聞こう。その流行病というのは?」 「『八千日病』。その名のとおり、発症からちょうど八千日で死に至る奇病よ。非常に感染力の強いウイルス性疾患であり、主な感染経路は性行為による感染、血液感染、母子感染。現代で言うとちょうどAIDSと似た感じかしら」 「ふむ。それにしても八千日とは、なんでそんなにはっきりと分かる?」 「簡単な話よ。八千日病ウイルスに感染した瞬間、身体のどこかに8000という数字が浮かび上がるの。それから一日ごとに7999、7998と数字は小さくなっていき、ついに0になったその日、夜明けとともに壮絶な死に至る……」 「壮絶な死?」 「全身から水分が一気に抜け、ミイラのように干からびるの。その様はまるで一瞬で数百年の時が押し寄せるかのよう。それゆえ、それを病ではなく『時の神の呪い』と呼ぶ者もいるわ」  ヒッという中野の声と榊がコーヒーを啜るズズッという音だけが部屋に響く。  カップを受け皿に戻し、榊はふんと鼻を鳴らした。 「詰まるところ、タイムマシンに精通した私ならその呪いを解けるのではないかと、そういうことかな?」 「本当に話が早い。それでは……」 「断る。一体私になんのメリットがある? 悪いが、自分が死んだ後の世界の存亡になど興味は無いんだ」  あまりにあけすけな物言いに、当事者でない中野ですら嫌な気持ちになる。榊のこういう自分の関心しか大事にしない点は研究者として正しい姿であると同時に、人としては尊敬できないと中野は常々思っていた。  これが当事者である未来人の黒澤なら、一体今どれほど失望していることだろう。  結論から言えば黒澤は少しも失望などしていなかった。  まるで予想していた返事だとでもいうように乾いた笑い一つで受け流し、その顔には変わらぬクールな色を湛えている。 「いえ、榊博士。残念だけどあなたはこの依頼を断れない」 「ほう。なぜ?」  黒澤は懐から拳銃を持ち出し、榊の眼前に突きつけた。   中野はといえば、ミステリアスな未来人との邂逅という夢のような非現実が急にチープな現実へと突き落とされたような気がして、ガッカリした。 「三百年後の日本には、銃刀法は存在しないのかな?」 「この拳銃自体に殺傷力は無いわ。せいぜい擦り傷を付けられる程度。代わりに、弾に『八千日病患者の血液』をたっぷりと塗ってある」 「なら同じことじゃないか。今死ぬか、八千日後に死ぬかの違いだけで、安い脅しに変わりないよ」 「そうね。だけど私はどんな手でも使うわ。世界を守るためなら」  その言葉に中野はハッとする。  ミステリアスだろうが未来人だろうが、彼女もまた現実を生きる一人の女性なのだ。夢みがちなガキとは違う、強い意志を持った大人の覚悟。  中野はチープなどと馬鹿にした自分を恥じた。    しばしの沈黙の後、榊は「分かった、分かった。協力すればいいんだろう」と口を尖らせる。  黒澤がホッとしたように銃を懐へと戻す。その表情に中野は、一見大人びている黒澤の等身大の素顔を垣間見た気がした。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!