1 狼と暮らす1

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1 狼と暮らす1

 狼を拾った。本人が「自分は狼だ」と言うのだから狼なんだろう。青灰色の柔らかそうな髪に灰褐色の目をした、身長百九十センチを超えていそうな長身の男を狼と言うのなら、だが。 (そんな馬鹿な)  それが正直な感想だ。俺は狼だという言葉を信じてはいない。いくら流れ者が多いこの島でも「自分は狼だ」なんて言葉を信じる人はいないだろう。 (そもそも、料理洗濯掃除上手の狼とかいないだろうし)  自分を狼だと言い張る男はジンと名乗った。そして拾ってもらったお礼だと言って毎日料理をしている。それどころか洗濯もやれば掃除もするし、キッチンや風呂をピカピカに磨き上げもした。大きな体を器用に動かして、そりゃもう優秀な家政婦だと言わんばかりに家事全般をこなしている。  こうした生活もそろそろ二カ月が経つ。おかげで一人暮らしだった俺の生活は随分とマシになった。  賑やかな大通りから路地に入り、何度か角を曲がる。途中の店でビールとミルク、それに今朝切らしてしまったコーヒー豆も忘れずに買った。それを片手に住み慣れた、なのに少しばかり勝手が変わった我が家へと向かう。 「この匂いは……今夜も肉だな」  家に近づくと肉を焼くいい匂いが漂ってきた。そういえばジンが作るものはほとんどが肉料理だ。「ま、狼なら肉食だろうから当然か」と、本気でもなんでもないことを思いながら玄関のドアを開ける。 「おかえり、カグヤ」  柔らかそうな長めの後ろ髪を束ね、濃紺色のエプロンをしたジンがキッチンから顔をのぞかせた。 「ただいま」  そう答えれば、いつもどおりふわりとした笑顔が返ってくる。その顔にドキッとするのはもう何度目だろう。 (落ち着け、俺)  ジンの笑顔に胸が高鳴るようになったのは、おやすみのキスをされるようになってからだ。 (挨拶のキスにドキドキする俺も俺だよな)  初めてキスをされたとき、あまりに自然だったせいで怒ることも拒絶することもできなかった。唇にされたのに、おとなしく受け入れてしまっていた。  二日後にもキスをされた。一度目で怒らなかったのに二度目で怒るのも変だよなと思ってやっぱり怒ることができなかった。そういうことが何度か続き、気がつけば毎晩のようにおやすみのキスをしている。  キスをするとき、ジンはいつも嬉しそうにふわりと笑う。そのせいで同じような笑顔を見ると変な気持ちになってしまうに違いない。 「今夜はチキンソテーと茹で野菜、それに今朝のパンの残りだよ。……カグヤ、どうかした?」  しまった、うっかり男らしい顔に見惚れてしまっていた。突っ立ったままの俺を不思議そうに見るジンに慌てて「何でもない」と返事をし、買って来たものを渡して奥の仕事部屋に逃げた。  薄暗い部屋の作業台に近づき、拾ってきたばかりの材料たちを置く。今日の収穫は硝子の欠片と貝殻、それに打ち上げられた珊瑚だ。それらを並べてから食卓へと戻った。 「明日は作業?」 「あぁ。そろそろ新作を納品しないといけないからな」 「じゃあ、しばらく忙しくなるね。お昼は手軽に食べれるものにしようか」 「そうしてくれると助かる」 「任せて。おいしいサンドイッチ作るから」  そう言いながらニコニコ笑うジンは、大きな一枚肉を焼いたチキンソテーを一口サイズに切り分けて俺の皿に載せていく。その横には根菜の茹でたものを、これまた一口サイズに切り分けてから載せ、最後にお手製のソースをかけた。  ジンは、こうして自ら切り分けた食べ物を俺に食べさせるのが好きらしい。「俺は狼だからね」とか何とか言っていたが、まったくもって意味がわからない。 (ま、こういう食事にもすっかり慣れたけどな)  こんな生活が二カ月も続けば、これが日常だと思えてくるから不思議だ。  食事を終えてから仕事部屋で道具の点検をしていると「先にシャワー浴びちゃって」という声が聞こえてきた。部屋から出れば、片付けたりゴミをまとめたりしているジンの後ろ姿がある。 「何か手伝おうか?」 「ここはいいから、シャワー浴びてきちゃって」  たしかに手際の悪い俺が手を出すほうが手間になるだろう。そう思ってさっとシャワーを浴びた。頭をタオルでゴシゴシ拭いながら出てくると、着替えを持ったジンが入れ替わるように風呂場に向かう。 「あ、先に歯磨きしてから本を読むこと。わかった?」  俺より広い背中を見送りながら、思わず「母親みたいだな」とつぶやいた。 (まぁ、何度も言われる俺も俺だけどな)  先に言わないと俺が寝落ちするとジンはわかっているのだ。俺のほうも自覚があるから、おとなしく言われたとおりにする。 (それにしても、どれだけ甲斐甲斐しいんだって話だよな)  これで狼だと言い張るのだから本当に意味がわからない。  歯磨きをしてからソファに座り、読みかけの本を手にした。数ページ読み進めたところで段々瞼が重くなり、気がつけば膝に本を載せたまま寝落ちしてしまっていた。 「ほら、もう寝よう?」 「……ん」  こうしてジンが優しく揺り起こしてくれるのもいつものことだ。ぼんやりしながら寝室に行き何とかベッドに寝転がる。そんな俺に「おやすみ」と言ったジンが唇にキスをした。それをおとなしく受け入れ、背中から抱き込まれるようにジンに包まれるのも毎晩のことだ。 (人肌っていうのは心地いいよな)  そう思いながら瞼を閉じ、一日を終えた。
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