ネモフィラの秘密

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 ――たとえきみが拒もうとも、おれはこの手を伸ばし続ける。だから。      ひとりで生きようとするな、セイラ。  リランは雨垂れの音で目を開けた。  ……久しぶりに懐かしい夢を見ていた気がするが、もう内容はしとしとと降る雨とともに霧散してしまった。  んーと伸びをして長椅子から身を起こす。と、するりと本が床に落ちた。どうやら読書中に眠ってしまったらしい。  本と栞を拾い上げ、栞を多分このあたりまでは読んだというカンに従って適当に挟む。栞にされたあおい押し花は年を経るにつれ鮮やかさを失っていた。  精緻な模様のステンドグラスのはまった出窓から外を見れば、あたりが朱く染まっていた。…夕暮れだ。  今の太陽と同じように、あとはもうただ沈んでゆくだけの夕暮れ色の過去を思い出し、リランはあおい瞳を伏せた。絹糸のようにさらりとした、透き通るような金髪がはらりと顔に陰をつくる。  コンコン、と部屋の木の扉が遠慮がちに叩かれた。 「……リランさま、いらっしゃいますか?」 「ええ。入って良いわよ」  ドアノブが回され、古い扉がきぃという小さな音と共に開く。  現れたのはティーセットを持ったリランの従者・アルセイだった。 「姫様、うたた寝をしてらしたのですか」 「え? ……なんで分かったの?」 「御髪が乱れております。…ぼさぼさですよ」 「え、嘘」  きゃーと鏡台の前に駆けて行ったリランの後ろ姿を見て、アルセイは密かにため息を吐いた。髪。それに。  ……姫様はこの時期、眠った後は大抵沈んだ顔をなさっているからすぐ分かる。  変な夢でも見ているのだろうか、妙に疲れたような顔をしているのだ。  それに、彼女の過去と未来は重たい。特に過去は、優しい記憶と悲しい記憶が入り乱れているから。思い出したくても、思い出したくない。相反する感情があるのではないかとアルセイは思っている。  髪を整えて戻ってきたリランに、アルセイは何枚もの紙束を差し出した。 「では、残っている今日の分の政務を終わらせてしまいましょう」 「……はーい」  しぶしぶといった体で出窓の真下にある大きな執務机に向かう。  椅子に座ったリランは先ほどまでの無邪気な表情ではなく、一国を預かる王の顔をしていた。 「隣国・シールの様子はどう?」 「シールでは依然、小規模な労働者反乱が起こっていますが、じきに収束に向かいそうです」 「そう。…未だ大国シールからの輸入に頼っている我が国には、たかが労働者反乱といえども流通が止まっては一大事と思っていたけれど…。何事も無く終わりそうだね」 「ええ。なによりです」  では明日の朝議では輸入については今までと同じ対応でと告げよう。次に――。  リランの声と被さるように、部屋の外で警備をしている衛士の声が響いた。 「陛下、オキシドル宰相がお見えです」 「どうぞ」  リランは短く答え、椅子から立ち上がった。 「宰相、かような時間にどうされた。外朝の勤務時間はとっくに終わっているが?」  ロマンスグレーの短い髪を後ろになでつけた六十過ぎのオキシドルは、リランに向かって歩きながら答えた。 「お若い陛下が政務に励んでらっしゃるのに、私だけ先に帰ることなどできませんよ。なに、ちょっとシールの事が気になりましてな」  オキシドルから見れば孫のような歳のリランに対して敬語を使いながら話しているのは、何も事情を知らない者から見れば実に奇妙であろう。  だが、リランはシールの南西に位置するネル大陸最西端の国・ランドルの王であった。 ランドルは五年前に起きた第三次ネル大陸戦争においてシールに大敗を喫し、リランの父やその妃、兄や弟まで皆殺しにされた。兄弟はみな戦死だが、母親達はシール軍が王宮近くまで迫ったときにみなで自害したのだった。唯一の姫であったリランはランドル王国の最南端、つまりシール軍の侵略してくる真逆の方向の離宮に避難していたのだ。そのため難を逃れたが、そのかわり、当時十二歳だったリランは大幅に領土の減らされたランドルの王となることになったのだ。 「――シールの労働者反乱はじき収束する見込みだ。心配することはないと、朝議で伝えるつもりだ」 「さようですか。それは良かった」  今年十八歳になるリランの頭を「あまり頑張りすぎぬよう」となでなでして、オキシドルは帰って行った。 「………」  なでられた頭に手を置き、リランはアルセイと見つめ合った。 「……今日はいつになくおじいちゃんっぽかったな…」 「…最近ついに孫娘が全員結婚してしまったーと嘆いておられましたからね。お寂しいのでしょう」 「………結婚、か」  リランはぽつりと漏らした。  十八歳になるリランは、未だ独り身だ。大陸では、十六歳をすぎればいつ嫁に行ってもおかしくないのである。それに、リランは王女。戦争がなければとっくに嫁いでいただろう。…王となった代償。当時好きだった男も居た。  氷のようだった心を溶かしてくれたひと。だが彼は、今はもう……。 「…姫は王であらせられる故、相手もしっかりと選ばねばなりませんし。結婚が遅くなるのは無理ありません」  アルセイは慰めるように言った。  実際、候補にあがっている男はいくつか居る。極小国であるランドルが生き残るため、近くの同じような小国の王子。いや国内での結束を強化すべきだと臣下の息子。はたまた商業を強化すべきだと新進気鋭の若手大商人などなど…。だが誰に対しても、リランは首を縦に振らない。朝臣たちは、政治的な考えあってのことだろうと口を酸っぱくして言うことはない。が、アルセイだけは何となくリランの心の内が分かっていた。  ……多分、あの男のせいだろう。  アルセイは、リランが幼い頃から面倒を見ていた。リランの兄王子の乳母をしていた女の息子だ。そのため、実の妹のように思っている。共に育った王子は戦乱の最中命を落としたため、その後はリランの従者をしている。  王子を守れなかった悔しさと、そのせいでリランが王位を背負うことになった後悔とともに。 「結婚のことは、ちゃんと考えてるから。心配しないで」  にっこりと笑うリランに、アルセイは胸がつきりと痛んだ。 *** 「――リラ様! こちらにおいででしたか」  侍女の声がランドル王国の最南端にある離宮の庭に響き、リラはしゃがんで花を眺めていたが振り返った。  この離宮は表向きは門下省長官・オキシドルのものとなっているが、今は王女・リランがひとり避難していた。  戦火はまだランドル王国まで迫ってはいないが、念のためにと父王に命じられてきたのだ。  そのため、ここにリランが居ると知る者は王族とオキシドルだけだ。  正体を隠すため、王宮から付いてきた侍女達には〝リラ〟と呼ばせている。 「もう。ここは王宮とは違うのですから、あまりふらふらと出歩かないで下さいませ」  幼い頃から共に育った四歳年上の侍女で親友のエハナが咎めるように言った。 「ごめんなさい。でも、宮の中は退屈で」 「だから刺繍をお教えしたのではないですか。それをちょっと目を離したすきに窓から逃げ出して! 刺繍はお嫌いですか?」 「ちまちましたものは苦手なの。外で走り回っている方がよっぽど楽しいわ」 「はぁ…。嫁入り前の女性が言う台詞ではありませんね。いくら遊びたい盛りだと言っても、これでは……」  またため息を吐いて頭を抱えるエハナに、リランは反論した。 「嫁入り前って言っても、まだ十二歳よ。街の子ども達は普通に外で遊んでいるわ」 「もう十二歳です。リラ様はご身分が違うのですから、比較なさらないで下さい」  はぁ…と今度はリランがため息を吐いた。  離宮に来てから一月。リランはほぼ離宮内で軟禁状態にあった。  侍女達が言うには、〝間諜が潜り込んでいるかもしれない〟〝戦況を有利に運ぼうと人質にされるやも〟など…。第一、ここに王女の自分が来ていることは第一級の極秘情報である。さらに、念には念をと、王宮に身代わりまで置いているのだ。 (ばれるわけないじゃない)  内心で何度そう毒づいたことか。 「そうはいってもねえエハナ。今は五月。花の盛りじゃない。あと数週間もしないうちに梅雨がきちゃうのよ! そうすれば外へは出られなくなっちゃう」  大陸の最南端であるこの土地は暖かく、王都に比べると過ごしやすい。  温暖な気候も長く続くためか、花々もまだまだ衰えることを知らない。  しかし南方ゆえ、王都よりも梅雨が来るのが早く、そして長い。  それに、庭園は綺麗に整理されていて見やすいが、リランは自然に咲く花も見ていたいと思っていた。 「駄目なものは駄目です。さあ、宮に戻りましょう」  有無を言わさず腕を取られ、立ち上がらせられる。  ふぅ…と息を吐いた。 (…今日も敷地外に出るのは無理そうね)  エハナはリランが外に出る算段を付けるために庭で遊んでいるとは思っていまい。  しかし今日も少しは情報が得られたと心を弾ませ、リランはおとなしく宮へと戻っていった。  リランは恨めしそうにしとしとと雨の降っているのを部屋の窓から眺めていた。 (これでは脱走できないじゃない…!)  やっと脱走計画を思いつき、今日明日にでも実行してみようと思っていたのに、間の悪いことに梅雨が始まってしまったのだ。  侍女達は「これでリラ様が外に出なくなる!」と小躍りしていたが。  雨のおかげで監視の目が緩くなってはいたが…。  断続的に降る雨の中、外へ行くことは出来ないと、リランはあきらめていた。  はあ、と大きなため息を吐き、エハナに無理矢理教えられている刺繍の練習を再開した。  梅雨が始まってから、数日後の早朝。  もう長い間見ていなかったと感じた程恋しく思っていた太陽が顔をのぞかせた。  と同時に、リランはいそいそと脱走の準備を始めた。 (エハナ達が起こしに来る前に出てしまわなきゃ)  押し開きの窓をそうっと開け、二階の自分の部屋からすたっと軽い音をさせて飛び降りた。その後も庭で眠そうにしている衛士たちの目をすり抜け、なんとか下働き用の通用門までたどり着いた。  あくびをかみ殺している門番に声をかける。 「リラ様の急用で。通してもらえる?」  門番は街の少女たちが良く着ている質素な洋服に騙されてくれ、すんなりと通してくれた。使いだとばれないように侍女服ではないのだと思ったらしい。  難なく離宮から出ることが出来、嬉しいような、物足りないような。  とにかく不在がばれていないうちにと、リランは離宮に来る際非常時用にたたき込まれていた地図を思い出してとりあえず北を目指した。湖があるというのだ。  獣道を歩いて行く。伸び盛りの草や枝にあちこち叩かれながら進むと、木々に囲まれた湖が見えた。 「………!」  朝の光を反射して輝く湖面は、リランが今まで見たどんなものよりも美しかった。 (まるで磨かれた宝玉のよう…。ううん、それ以上だわ)  まだこの世には自分の知らないものがあるのだと感動を覚えた。  しばらく立ちすくんだまま見つめていると、背後でがさがさっと物音がした。 「!」  追っ手か、と身を固くするも、ひらけている湖の周囲にいるため隠れる場所がない。  息を詰めたまま人物が現れるのを待った。 「――あれ、先客だ」  緊張をよそに、姿が見えると同時に軽い声が響いた。  目を見張ったリランに、声の主が問いかけた。 「君、そこの離宮の人かな? ここらじゃ見ない顔だけど」  現れたのは、リランと同じくらいの歳の少年だった。 (追っ手じゃ、なかった…)  力が抜けて倒れそうになったリランを、慌てて駆け寄って来た少年がしっかりと支えた。  身長は同じくらいなのにしっかりと支えられ、そのことにリランは驚いた。 「お、おい、大丈夫か」 「だ…、だいじょうぶ」  ありがとう、と声のした方を見て言うと、少年と至近距離で目があった。 「…ッ」  お互いびっくりして慌てて離れる。 「ご、ごめんなさいっ」 「い、いや…」  何とも言えない空気が漂う。 「あ、あの! このあたりで、花が綺麗に咲いているところ、知らない?」 「花?」  訝しげに首をかしげる少年に、リランは言葉を継いだ。 「そう! 自然に咲いている綺麗な花を見てみたいの」  少年は何かに気がついたように眉を上げたが、そのことについては触れず、質問に答えた。 「…この湖をちょうど半周くらいしたところに、一面花畑のところがある」  リランはぱあぁっと顔を輝かせ、礼を言って飛び出した。 「ありがとう!」 「え、ちょっと待った!」 「?」  少年は思わずというように呼び止めた。 「詳しい場所言ってないだろ? 入り組んでるし、連れてくよ」 「ほんと? ありがとう。慣れない土地だから助かるわ――っと!」  リランは話に夢中で足下の木の根にひっかかり、体勢を崩した。  が、少年が先ほどのように腰をさらって支えた。 「ったく、あぶねーな」  リランを慎重に立たせ、少年はその手を握った。 「え?」 「こうしてれば、もう転ばねぇだろ。…行くぞ」  ずんずんと先に進んでいく少年。その背中を追いかけるようにして、リランは歩き出した。 「ねえ、貴方、名前は?」  リランはほぼ初めて見る自然の姿に見とれながらも、少年に話しかけた。 「おれ? ソーエ」 「ソーエ。歳は?」 「十五」 「えっ私の三つ上!? 身長的に同い年くらいだと思ってた…」 「身長言うな!」  今まで黙々と歩いていたソーエが突如振り向いた。  驚いた拍子によろけたリランを見て、ソーエが「あ、わりぃ」と謝り、 「…背低いの気にしてんだからあんまり言わないでくれ」 「そうだったの。ごめんなさい」  リランが素直に謝ったのには少し驚いた。 「い、いや。…君は、なんて名前?」 「あたし? ……えーっと、」 「…なんで名乗るのに考えてんだよ」 「いや、別に? 私の名前はセイラよ」  流石にリランと馬鹿正直に名乗るのは駄目だろうと考え、しかしリラでは離宮の姫とばれてしまう。リランの正式名はリラン・セイ・ランドリアだ。セイは母方の名字で、ランドリアは王族のもの。それをくっつけたのだ。 「セイラ? へー、可愛い名前だな」 「…へっ?」  可愛い、と言う言葉は侍女達がよく口にするので慣れていたはずだ。なのに何故。 (こんなにもどきどきするんだろう…)  彼の言葉は本心から言っているように聞こえた。だからだろうか。 「あ、セイラは十二歳なんだよな? 離宮で奉公してんのか? まだ小さいのに頑張るなぁ」 「……小さいって。貴方と同じくらいじゃ――」 「――身長じゃねぇよ」 「…すみません」  ふふっと笑声をこぼした。 「あ? 何笑ってんだよ」 「あ、ごめんなさい。あなたを笑ってたんじゃないの。こんな風に誰かと話すの、初めてで」 「は? 普段どんな風にしゃべってんだよ」 「敬語かなぁ…。相手と同じ話し方をしたことないわね。大抵あたしか相手が敬語使うから」 「なんじゃそりゃ。同い年の子でもか?」 「ええ。…そういううちなのよ」 「………」 「だから、とっても楽しくて。それで笑っちゃったの」  リランは隣を歩くソーエが何かを考えているのに気づかずに笑いかけた。 「ねえソーエ、今度は貴方のことを教えて? 家族は? 何をして過ごしているの?」 「そんなにいっぺんに答えられねぇよ。湖まではかなり距離があるから落ち着け」 「じゃあまずは貴方の家族から教えてちょうだい」  気がはやるリランは身を乗り出すようにして聞いた。 「…おれの家は、街でパン屋をやってるんだ。父ちゃんが焼いて、母ちゃんが売ってる」 「パン屋さん! 良いわね…。私、できたてのパンって食べたことないのよ」 「え? なんで…」 「いつも、冷めて他の人が食べた後のものしか食べてはいけないの。だから、温かい食事なんてしたことないわ」 「ふーん…。大変な家なんだな」  ソーエがちらりと横を見ると、まあね、と微かに笑うリランの顔が暗く沈んだ。 「あ、じゃあ次の質問、いい?」  顔を上げたリランの顔は、もう明るくなっていた。聞きたくてうずうずしている。 「ああ…。一個ずつな!」  さっきの顔は何だったのだろうと考える前に、リランの質問攻めにあって忘れてしまった。 「――ほら、もうすぐだ」  ソーエの言葉通り、鬱蒼とした木々の合間を抜けると、目の前が突然蒼色で埋め尽くされた。 「わぁ……っ」  開けた草原は、一面蒼い花で埋め尽くされていた。  湖面に見紛うほどの蒼さ。  さわさわと吹く風に揺れる小さな花たちは、やはり水面のようにも見える。 「ねぇソーエ! これ、なんて名前の花っ?」  繋いだままの手をぐいぐいと引っ張って聞く。 「『ネモフィラ』だよ」 「ネモフィラ?」  首をかしげて繰り返す。 「そうだよ。…別名『つぶらなあおい瞳』」  へぇー! とはしゃぐ姿を見て、ソーエは疑問に思った。…こんな街中にも植わっているような花さえ知らないなんて、セイラは何者なんだ…?  だがそんなことも、彼女の無邪気な笑顔を見ていたらどうでもよくなった。  朝露に濡れながら元来た道を戻り、薪拾いをして帰るというソーエと森の入り口で別れる。 「今度いつ会える?」 「え?」  項のあたりをかきながら、ソーエは聞く。 「おれ、毎日これくらいの時間にこの森に来てるから。…セイラさえよければ、また森案内するし」 「ほんと!? あ、…でも、はっきりこの日、とは言えなくて……ええと、晴れてる朝なら、来られる確率が高い…と、思う」  歯切れの悪い返答にも、ソーエは「そっか」と頷いた。 「じゃあ会えたら会おうぜ。おれはだいたい毎日これくらいの時間には来てるから」  はっきりしない答えしか出せずに項垂れていたセイラは、ぱっと顔を上げた。  さきほどと何ら変わらない表情でリランの言葉を待っているソーエに、どこかほっとした表情で、リランは頷いた。  ソーエはあまり湿気っていない枝を探し歩きながら、先ほど会った少女のことを考えていた。  街に住む少女たちが着るには、あまりにも上等な服。  手入れの行き届いた肌や髪。  野花の名も知らず、焼きたてのパンを食べたことがなく、周りと話すのには常に敬語。  おそらく離宮から来た、"十二歳の、金髪碧眼の少女"。  オランドル王国宰相の孫娘なら、ソーエも何度かお目に掛かったことがある。  今年十歳で、茶色の瞳、茶色の髪をした、高慢ちきな少女になら。 (あの孫娘が、たった二つ年が上なだけの市井を知らないお転婆を侍女にするとは思えない)  下働きではあんな上等な服は着させてもらえないし、給金では買えない。 (おそらく彼女は、—―)  セイラの無邪気な笑顔を思い出し、ソーエはその先を考えるのをやめた。  ……心臓が、いつもよりはやくコトコトと音をたて、頬に熱が集まってくるのを感じたので。  きらきらと陽光がさんざめく湖面に、春の終わりの風が波をたてた。    それからも、晴れた朝に二人は何度もこっそり森で会っていた。  セイラが「焼きたてのパンを食べたことがない」と言っていたので、ソーエはそれから毎日森へ来るときは自分の朝飯だと言い張って商品になりそこなったパンを持ってきていた。  特に落ち合う場所も時間も決めていなかったので会えないかもとすら思っていたが、その心配は杞憂に終わった。  セイラはふらふらと匂いに釣られるようにソーエのもとへやって来るのだ。  なんだか小動物を餌付けしているような気分になったが、隣で原っぱに膝を抱えて座りながら「ふわふわ…」「あまい!」などと目をキラキラさせ、くるくると表情を変えるさまを見ているのは心地の良い時間だった。  お互い早めの時間に落ち合うことができた日は、湖を半周してネモフィラの海を見に行った。群生しているためか、はたまた人に踏みしめられることがないためか、長い間咲いている。  それでも、季節が梅雨から夏へと変わろうとするように、――戦況が悪化の一途をたどっていくのと同時に、ネモフィラも次第に元気をなくしていった。 「…もう、この花を見るのも、きっと最後ね……」  梅雨の間の、たった数週間程度の間に、初めて会ったときからずっと大人びた――陰の濃くなった——セイラがため息を吐く。  ここ数日は梅雨も終わりかけで晴れた朝が多かったが、それと反比例するようにセイラが姿を見せることは少なかった。 「……また来年見れば良い」  ソーエはそう言って、まだ元気に咲いているネモフィラを一輪摘んで、セイラの耳元に挿した。 「来年も一緒に見よう、セイラ。……ネモフィラ、セイラの瞳に似てて、良く、…似合ってる」  ソーエは真っ赤な顔で、セイラを見つめた。  セイラは目を見張り、少しだけ頬を染めて、「……そうね」と、力なく微笑んだ。  「ありがとう」という小さな声が、ぽとりと湖面に落ちて、沈んでいった。  ソーエは帰り道、やけに実家のある商店街の前の広場が騒がしいことに気がついた。  大人たちのざわめきを聞き流しながら実家へと歩いていると、足下にどこからか飛ばされてきたのだろう、「号外」と赤字が書かれた新聞が引っかかった。  仕方なくそれを拾い上げ、なんとはなしに目をやった。   『大陸戦争で我が祖国・ランドルは北方シール帝国に大敗す』   『戦線指揮を執っていた国王・王子は戦死、王城に残りし妃らは自害』   『末子リラン・セイ・ランドリア王女は行方知らず』  大きな文字とともに王女の写真が踊る紙面を、ソーエはただ呆然と眺めていた。  リランはこれでも王女で、末子で姫であるとはいえ、王位継承権を持っていた。だからこそ主戦場である北方のシール帝国から一番離れている最南端の離宮にまで避難したのだ。  ……だからこそリランも、今王国が存亡の危機にあることは十分に分かっていた。  家庭教師が毎日読み上げる新聞と、……それが虚構だらけだと知らせる戦地日報。戦況は芳しくなく、おそらく攻め落とされるだろうこと……。  それらがうすうすとこの南の地にも実感を持たせてくると、幼少期に形だけ教え込まれた帝王学を徹底的に学ばされた。  兄たちが皆戦死しても、国を動かせる王族が居ると声を上げられるように。  家庭教師が退出すると、雨のせいで普段の数倍暗い部屋が、さらに暗くなったように感じた。  帳面にペンを転がして、ため息を吐きながら立ち上がり、お気に入りの出窓に肘をつく。  晴れた日にはネモフィラの咲く湖のきらめきさえ見えそうなほど見晴らしの良い眺望は、今は庭園の噴水と鮮やかな花々さえ暗く煙り、雨のベールに隠れていた。  ……今日ついに、市井の新聞でも父王と兄王子たちの戦死が報じられた。明日にでも離宮を発ち、王城へと戻り急ぎ王位継承の儀を行わなければいけない。  王都は離宮から馬で二日程度。男系の王位継承者は全員戦死、王妃や侍女たち城を守っていた女たちは皆自害したとあって、シール国内ではこれ以上の進軍は無用との見解が固まっているようだ。いくら戦時中と言えど、上に立つものなき国でこれ以上の蹂躙をする必要はあるまい。  それに大国シールといえど小国と侮っていたランドルに長期戦に持ち込まれて国内経済は停滞しているという。属国にするにせよ、だれが領主となるかは熾烈な争いをもって決定するだろう。  また、シールは教義を重んじる国で、本来血は不浄のものとして忌まれている。  そして、自害は自身の手で自ら不浄の血を流す最も恥ずべき行為である、という観点から、忌避すべき血臭の漂う王城は蹂躙されることなく、シール軍も国境付近まで軍を戻していた。  二日で王都に着き、身体を休める時間もなしに一日がかりで血濡れた王宮大祭壇で王位継承の儀を行う。  リランはあと数日で「リラ」でもなく「セイラ」でもなく、「ランドル帝国女王」になるのだ。  王妃たちは神の御許へ逝けるようにと、大祭壇で自害したという。 (……事切れた義母たちの死体と血が、王位継承の承認者、か)  リランは酷薄に笑った。……そうでもしないと、この狂った現実に取り込まれそうだったので。 「……妃と兄王子たちの血に濡れた玉座に座る幼帝、かあ」  虚ろな目で、お気に入りの出窓で晴れ間を待ちながらもしおれるネモフィラを眺めた。  ソーエにネモフィラをもらった翌日、リランはいつもと同じように森を訪れた。 「ソーエ」  なんの感情もない顔で黙々と機械仕掛けの人形のように枯れ枝を集めていたソーエは、もう聞くことはないと思っていたその声に視線を跳ね上げた。 「……セイラ」  薄く笑ってセイラはソーエが集めた枯れ枝の山にちかづく。そこにいつものようにバスケットがあるのを見て、「朝ご飯まだなの?」と聞いた。いつものように。  ソーエが黙って頷くと、「じゃあわたしこっちのパンもらっていい?」と聞く。  定位置の丸太に座り、今日もセイラは「焼きたて!」「さくさくのふわふわ」「あまくてしょっぱくておいしい」などと目をきらきらさせて感想を言う。いつものように。  ソーエもパンにかじりつきながら、いつものように街の珍事件だとか新しいパンを試作中なんだとか、たわいない話をした。  パンを食べ終えたセイラは立ち上がり、服をぱんとたたいてパンくずを払い落とすと、「湖に行こう!」と言った。  いつものようにソーエが手を差し出し、危ないところは支えながら、何度となく訪れた湖にたどり着く。……何度となくと言っても、両手の指で足りるほどだが。  今日は薄曇りで、少し霧も出ていた。湖はさざ波は立てても、光を反射することはなかった。  ネモフィラも、ここ最近日光浴が足りないのかしょんぼりしている。  湖の端でぼんやりと立っているセイラに、ソーエは比較的元気なネモフィラを摘んだ。今度は一輪だけでなく、数本の即席花束にして。 「……セイラ」  少しの緊張をはらんだ声に、セイラは振り向いた。  即席花束をセイラの顔の前に差し出す。 「すきだ」  予想だにしなかった言葉に、リランは驚きで目を見開いた。 「この花束、もらってくれ」 「……っ」 「セイラも、おれのことがすきだというのなら」  もらってくれ、と花束の奥から声がする。真っ赤になった耳が花の隙間から見えた。 「…………」  セイラはおそるおそる手を伸ばし、――――寸前で引き戻して自分の胸元で手を握った。  花束の奥からその様子をうかがっていたソーエは、無言で花束を持った手をだらりと下げた。 「なあセイラ。おれたちが会えるの、今年は最後なんだろ」  今日で、とは言わなかった。——言いたくなかった。  しばらくして、無言でこくりと頷くセイラの姿を横目に見る。 「おれ、楽しかったよ、セイラと会うの。お転婆だし世間知らずだけど、……おれの作ったパンをおいしいって食べてくれるし。だから、」  だから、たとえきみが拒もうとも、おれはこの手を伸ばし続ける。だから。  ひとりで生きようとするな、セイラ。  無言で立ちすくむセイラに、ソーエが続ける。 「一人で離宮抜け出して、名前も知らない花を見に来るくらい、寂しかったんだろ。……だけどおれは、いつでもセイラの味方だ。だから遠慮なく頼ってくれよ」  な? と、ソーエは笑う。いつものニカッとした笑顔で。  何か言わなくちゃと思ってるのに、頭が回らなかった。  近くから私を呼ぶ侍女たちの声がする。……行かないと。ネモフィラ(秘密)が見つかる前に。  踵を返した。その背中に、ソーエの声が掛かった——気が、した。  ソーエはすぐに木陰に隠れた。……というより、ずるずると座り込んだ、の方が正しい。  おれは、ちゃんと伝えられただろうか。  いつも寂しげな顔をしてやってくる彼女に。  彼女の中に、なにかひとつでも残るものがあったなら。  それだけで嬉しいかなと思いながら、立ち上がり、ネモフィラの花束をそっと湖面に浮かべた。 ***  三度の食事は、王になってからはことさら冷めた料理ばかりで、もちろんあつあつのふわふわパンではなく冷え冷えのかちかちパンだった。  だがそんなことに気を払う余裕はなく、戦後処理と条約締結、国内経済立て直しに周辺国との貿易交渉などに追われて、放っておけば一日中未決書類の山に向き合っているリランを見かねたアルセイが適当に口に突っ込んでくるものを腹に収めるだけの作業と化していた。  生き残った高位貴族は、王が女で幼いことを理由に傀儡にしようと画策していたが、そんなものは小指の先ではじき返せるような新国王の頭の回転の速さと、早く無駄のない執政、臣下の力量を見極め適正な人事配置を行う姿に、すごすごとゴマすり狸へと変身した。それさえも上手く使っているのだから、末の姫には王たる素質があったのだろう。一年もすれば「幼帝」だの「力なき女王」だのと言わなくなり、九割近くの官吏たちがリランに好意的だった。王位継承権を持つのがリランただ一人であることにやきもきしてはいたが、まだ年若い女王であることから、口に出して進言する臣下はごく少数であった。  そんな国王が自身の結婚を発表したのは、国王の二十歳の誕生日を祝う宴の日だった。  梅雨が明けた七月。本格的な夏の到来を肌で感じさせるような、あつい風がようやくぬるくなってきた夜会の大広間。  在位八年を経た国王の挨拶と、二十回目の誕生日を祝う臣下たちの挨拶という名のゴマすりが一息つき、参加者のほとんどが酒とぬるい夏の空気に酔い、宴もたけなわという頃だった。 「夜も更けた。……最後に私から、一言」  参加者たちは酒とあつさとで赤らんだ顔を玉座に向ける。 「今日は私の誕生祝いに集まってくれてありがとう」と、リランは従者であるアルセイの手を取り玉座から立ち上がった。  「あとは皆で楽しんでくれ」という言葉が、例年ならば続くはずだった。 「夫をもつことにしたよ」  大広間は水を打ったように静まりかえった。  そこに、国王の豪奢なローブが床を摺る音だけが響く。 「それでは、あとは皆で楽しんでくれ」  例年通りの言葉を述べ、にこりと笑い、するすると長いローブをあしらって、呆然としている衛士に扉を開けさせ、退出していった。  宴の翌日、正式に「ランドル帝国女王リラン・セイ・ランドリアは、エナンシラ皇国第三王子、スアレス・ゲーデシア=エナンシラと婚姻を結ぶ」と発表された。  エナンシラ皇国はランドル帝国の東に位置する。  領土は、戦争後リランが治めているランドルの領土と同程度の小国。  大陸東部との国交で栄えていることもあり、シールやランドルとは少し異なる文化を持つ国でもあった。  結婚発表後から半年後にランドル王城大聖堂でランドル式の婚約の儀を執り行い、夫と共に婚姻前と何ら変わりなくランドルを統治した。  エナンシラもシールと国境を接していることから、二国合同の軍事演習を定期的に行うなど、婚姻を機に両国の結束は固くなった。それを恐れたのか、時と共に内政にも余裕が出てきたはずのシールも国境で軽い小競り合いを起こす程度で、侵攻の兆しはなかった。  二十六歳となった女王は即位時にあった幼い可愛さは薄らいだが、ネモフィラの花のようにあおい瞳はときに鋭さをはらみ、ときに優しげにほそめられた。王冠とローブは女王の凛とした美しさをより一層引き立てた。  しかし、婚姻から六年が経ち、一向に女王に懐妊の兆しがないことに、臣下たちは不安を募らせていた。  そのようなとき、——女王が二十七歳の誕生日を迎える直前の梅雨の雨の日、女王は次の梅雨が来る前に、王位を夫の兄であるエナンシラ皇帝に譲位し、ランドル王国をエナンシラ皇国と併合し、両国を隔てる山脈の名前を取って「サンノーラ皇国」とすると発表した。  ランドル帝国の元女王は、十六年ぶりにランドル最南端の離宮を訪れていた。  ……もうランドルではないけれど。  心の中で呟く。けれどそこにはなんの感情もなかった。  リランがほんの一月程度すごした離宮は、戦後処理のごたごたで修繕されることもなく朽ちていた。  おそらく近くに住む子どもたちは「幽霊屋敷」だとかいって探検でもしてるのではなかろうか。  王冠もローブもなく、簡素なドレスをまとったリランは割れたガラスをヒールで小気味よく踏んづけながら、ときには外壁から侵入してきたのだろう蔦を引きちぎりながら、自室だった部屋へと足を動かす。  入り口の扉は錆び付いていて、ドアノブをひねっても引っ張ってもうんともすんとも言わない。やけになってヒールで軽く蹴り飛ばすと、あっけなく扉が前に倒れた。赤茶けた蝶番がギイィ…と悲しげな声をあげながら。  精緻な模様が彫られていた扉を容赦なく踏んづけ、中へ入る。  上階だったためか、(ドアノブと蝶番が必死に扉を開けさせまいとしていたからか、)幽霊屋敷探検隊に荒らされた様子は全くなかった。  ……なんとなく、ドレスについたほこりやら蔦の破片やらをぱたぱたと落としながら、お気に入りだった出窓に近づく。  出窓に置いた一輪挿しは、当時のままあった。……水はなく、花の姿はなかった。  手に取って眺めた後、コトリと出窓の端っこに置き、出窓を開けた。  夏の生ぬるい風がリランの金髪をゆるく撫であげる。王都よりも早く梅雨が過ぎたので。  当時、湖面のきらめきが見えていた辺りは、木々が伐採され、湖は埋め立てられたようだった。  よく開けた視界から、ネモフィラの花畑は見えない。  リランはそっと目を伏せ、ゆっくりと出窓を閉めた。思い出をしまった箱の蓋を閉めるように。  当時湖をさんざめかせ、ネモフィラを咲かせていた陽光が、リランの胸元を飾るネモフィラの花をかたどったちいさなサファイアをきらめかせた。
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