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吾輩は霊獣である。
人間は吾輩を狛犬と呼ぶ。
いつも邪気を祓い続け、この神社を守ってきた。
だが、もうずいぶんと長い間ここにいて、
どれだけ歳をとったのかも覚えていない。
ただ、この場所から見る景色は昔とずいぶん変わった。賑わっていたあの頃が思い出せなくなるくらい、今は人がいなくなった……。
久しぶりに人の足音が聞こえる。
境内の入り口の階段を上りきった所。
四十代の筋肉質の男は、背負っていた白髪の女を参道に静かに下ろす。
女の白髪が風に揺れ、笑うと目尻の皺が目立つ。感情に浸りながら入り口にあるお百度石を撫でた。
そして、女は杖をつき、右足をひきずりながら、ゆっくりと参道を歩いていく。
「重かったでしょ?大丈夫?ごめんね」
「このくらい大丈夫だよ。歩ける?」
「うん。ここは一人で歩きたいから……」
白髪の女は、周りをキョロキョロ見回しては、目を輝かせる。
「懐かしい……足が悪くなってから、一人でここに来られなくなってしまったからね……」
「また来たくなったら俺が連れてくるよ」
「崇史ありがとうね……」
「でも母さん、何でこの神社に来たかったの? 全くここの神社、人がいないんだけど?」
筋肉質の男は、境内を見回し眉をひそめた。
この小さな境内には、自分達以外に人はいない。古びた小さな手水舎には水がなく、変わりに赤や黄色の枯葉が積み重なり、長く使われていない事を予想させる。
筋肉質の男は腕を組み、用心深く何度も境内の隙間を見つけては、覗きこんでを繰り返す。それを見て白髪の女はふんわり笑った。
「ここの神様はよく願い事を叶えてくれるのよ。昔ここの近くに住んでたでしょ? それからずっとここでお願い事をしていたの。崇史がこんなに立派になったのはここの神様のおかげよ?」
「え?引っ越してからもここに来てたの?」
「うん。よくお願い事叶うから……」
息子と母は顔をみ見合わせると息子は、呆れた顔をして声を出して笑った。
「そうだったんだ! それなら俺も早くここに、お参りにくればよかったな〜」
——カランカラン。パンパン。
「遅くなりましたが、お礼に参りました。今までありがとうございました。(……今度は母が長生きできるように、俺が親孝行しますので……。だから母を見守っていて下さい。お願いします)」
「沢山の願い事を聞いて頂き、本当にありがとうございました。(……これからも息子が元気でありますように見守ってあげて下さい。お願いします)」
女は、なかなか礼拝をやめない息子に微笑みかける。
「何お願いしたの?」
「いや……宝くじ当たりますように?」
ニ人とも呆れたように顔を見合わせケラケラ笑う。そのまま少しだけ目線をあげた。
境内の大きな銀杏の木は、随分黄色く色付いている。温かい太陽の光が境内全体を照らし、時折銀杏の木が、黄金色に神々しく輝くのが目に映る。
「母さんね、この神社のピンとした空気も好きなんだ……」
二人しかいないこの境内は、しんと静まり返り、女の声と風の音しか聞こえない。
この境内で声を出すと、何だか、新雪を踏む時の楽しさと似た優越感がある。澄んだ空気の層は、小さな音でさえも容易に壊れる。
女の声は、澄んだ空気の中では足跡のように、見えない言葉が形として残っているように思えた。
「母さんが、何でここが好きなのかわかったかも……確かに神様が近くにいるような……近くで願い事聞いてくれてそうな気がするよね……」
二人は、全身でこの神社の澄んだ空気を、受け止めるように、両手を広げ、体をいっぱいに伸ばす。澄んだ空気を肺一杯に吸い込んだ。
そして、この神社へまた来る事を二人は告げ、また息子は母を背負う。自分より大きくなった背中を見つめ、背に乗る女の目には光る物が見えた。
二人は境内を後にした。
吾輩は母親をおんぶして石段を降りる親子を、
いつまでも眺めていた。
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