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ガーランドとステッキと追試
細いロープに実習の時間に作った染料で色をつけたハンカチをくくりつけていく。
「ステッキ…ステッキ…ス、テッ、キ…」
「ヴェネット何呟いてるの?ちょっと怖いわよ」
隣で同じ作業をしていたハンナが怪訝な顔をした。
「ねえ、ハンナ。ステッキってずっと言ってれば好きに聞こえるかな?」
「…ちょっと意味がわからないわ」
「…だよね」
薄い緑、薄い桃、薄い黄
ハンカチをすべてをつけ終えたロープがちょうど対角線上にある校舎同士の高い場所に取り付けられた。
平和を祈るハンカチのガーランドの完成だ。
青空のもと風にゆらゆらと揺られているたくさんのハンカチをしばし眺める。
これは昔の人々が国の平和を祈って、伝統の染料で染色した布を空へと掲げたのが起源らしい。
「ところでヴェネットは今度のお祭り、テオドール様を誘ってみるの?」
「う、うん…そうね」
再来週の休日に学園の近くの街でちょっとしたお祭がある。1年の平和を感謝する祭で、街中にも染色されたハンカチのガーランドがたくさん飾り付けられる。
ハンナは婚約者と行くと言っていたし、オーランドの方も婚約者がわざわざ隣国から遊びにくるらしい。
ヴェネットもできたらテオドールと街を見てまわりたい。去年まで誘われても断っていたのはヴェネットの方なので、こちらから誘っても断られる可能性が高いが誘うだけ誘ってみよう。
テオドールがもしフロレーラたちと行くなら一緒に入れてもらえるかもしれないし。
「あの、テオドール様」
「なにか?」
ヴェネットの声に振り向いたテオドールの瞳はなぜかいつも以上に冷ややかだった。
ヴェネットは緊張からこくりと息をのむ。
「あの、今度の街のお祭りなんだけどよかったら一緒に――」
「悪いけどもう先約があるんだ」
「そ、そうなんだ。……あ、もしかしてフロレーラ様たちと?」
「それが君に何か関係あるか?」
「いえ…」
すげなく断られ、ヴェネットは廊下をとぼとぼと歩く。
先日、テオドールはヴェネットが御礼に欲しいと言った白薔薇の花束をわざわざ学園まで持ってきてくれた。そのときの彼はヴェネットに対し以前よりも柔らかい態度で接してくれたので、ヴェネットは少し気安くなっていたのだ。でもやっぱり、テオドールはヴェネットから話しかけられるのも、何か誘われるのも迷惑のようだ。
教室の前にはハンナが待っていた。
「ヴェネット…その様子だと、もしかして断られちゃった?」
「うん」
「…落ち込んでるところにさらに追い討ちをかけるようであれだけど、あなたの名前、追試の対象者に載ってたわよ」
「えっ?!」
ハンナに言われて慌ててヴェネットは職員室近くの掲示板に向かった。掲示板に貼られた数学の追試対象者に確かにヴェネットの名前があった。
そういえばすっかり忘れていたけど先日の数学のテストは赤点だった。
(トホホ…)
――――
――――――
追試の日。
「すまないな。今日でなければ教えてやれたんだが…」
「いいの。全然大丈夫」
放課後、用事のあるオーランドは申し訳なさそうに帰っていく。
ちなみにハンナは人に教えられるほど数学は得意じゃないと帰っていった。
「今から追試の問題用紙を配る。終わったものから教卓に用紙を置いて帰るように」
そう言って数学の教師は退出した。
教室内にはヴェネットの他にも五人ほど追試のため生徒が居残っていた。
(駄目だ、1問だけさっぱりわからない…)
他の問題はなんとか解けたものの、残り1問どうしてもわからない問題があった。
他の生徒はだんだんと解き終えて、1人また1人と帰っていく。
難しい問題は教科書を見ながらでもいいと教師は言っていたが、教科書を見てもさっぱりだった。
(諦めて白紙で出そうかしら)
しかしそれで、ヴェネットだけ再追試になってしまったらさらに恥ずかしい。
悩んだ末、ヴェネットは先生が戻ってきたら教えてもらおうと待っていることにした。
すでにヴェネット以外の生徒は問題を解き終え、帰っていた。静かな教室にただひとり。
去年までのヴェネットはテオドールのおかげで赤点をなんとか回避していた。
数学の苦手なヴェネットのために、テスト前になるとテオドールが要点をまとめたノートを作って渡してくれたのだ。ヴェネットはお礼も言わず当然のようにそれを受け取っていた。
◇
「テオドール君、もう帰るとこか?」
「はい。何かありましたか?」
図書室での自習を終えて帰ろうとしていたテオドールは急いだ様子の数学教諭とすれ違った。
「もし時間があれば、教室の教卓に置いてある追試の生徒の解答用紙を回収して職員室の私の机に置いといてくれないか?私は急用ができてしまって…」
「いいですよ」
「すまないな。…あ、もういないとは思うがまだ残ってる生徒がいたら帰るように伝えてくれ」
「はい」
―――
―――――――
カタン
物音がして、ヴェネットが顔をあげると教室の入口に立っていたのはテオドールだった。
「まだ残っていたの?」
「あ…ちょっとわからないところがあって、先生が戻ってきたら教えてもらおうかと思って」
「先生は急用ができて、僕が代わりに解答用紙を回収しに来たんだ」
「そうだったの」
ヴェネットはわからない問題は諦めることにして、急ぎ解答用紙を提出しようと立ち上がりかける。
「どれ?」
「――え?」
気がつくとヴェネットの机の前までテオドールが来ていた。
「わからない問題。どれ?」
「あ、ここなんだけど…教科書を見てもわからなくて」
「…これはこっちの式をあてはめて解くんだ」
テオドールはヴェネットが理解できるように丁寧に解き方を教えてくれた。
チラリと見上げると真剣に問題を解説するテオドールの横顔がすぐ近くにあって、そんな場合ではないのにヴェネットはドキドキして落ち着かなくなった。
「解けたわ。本当にありがとう」
「いいよ。君が終わらないと用紙を持っていけなかったし」
テオドールはヴェネットから解答用紙を受けとるとさっさと歩きだした。
「あ、待って私も一緒に―――」
ヴェネットは急いで荷物をまとめ、教室を出ていくテオドールを追う。テオドールの方は無言で振り返ることもなく進んでいく。
彼が普通に歩くと小柄なヴェネットは速足にならないと追いつかない。
婚約者時代はヴェネットのゆっくりな歩幅に合わせてくれていたんだなと改めて思い知る。
「……」
廊下の窓からは風に揺れるハンカチのガーランドが見えた。
「あ、ハンカチ、きれいに染まったよね」
「……ああ」
「今日、天気もよくてよかったよね」
「………」
テオドールと何か会話したかったが、全く続かない。
しばらく速足で頑張ってテオドールを追いかけていたヴェネットだったが、運動不足ですぐに息が上がってしまい、彼との距離はどんどんあいていく。
テオドールは振り返ることもない。
息が苦しくなったヴェネットはついていくのを諦めて立ち止まった。
「テオドール様、ステッキ…」
遠ざかるテオドールの背中に向けて呟く。聞こえてはいないだろう。
ところがテオドールが急に立ち止まり振り返った。
「………ステッキって何?」
まさか聞こえてはいないと思っていたヴェネットは急に恥ずかしくなり、カアッと顔が熱くなった。
「あ、えっとステッ…素敵な風景だよねって。青空とハンカチと……あ、私、やっぱり帰るね。さようなら」
せっかくテオドールが聞き返してくれたのに、ヴェネットは恥ずかしくて熱くて、テオドールの顔が見れず走るようにして校舎を出た。
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