忘れていたこと

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忘れていたこと

『一緒に俺の国に来ないか?同じ経験をした俺たちなら理解しあえることもきっと多いと思う。き、君がいつでも笑ってられるように、幸せだと思えるように努力するから』  オーランドの真摯な言葉がヴェネットの心を揺さぶった。  オーランドはヴェネットがテオドールのことを諦められなくても構わないと言ってくれた。  このままこの国にいれば、テオドールが新しい婚約者を決めたという話もそう遠くない未来、耳にすることにだろう。  隣の国に行けば、物理的にもテオドールから離れられる。新しい環境に身をおけば、今は無理でも彼のことをいつかは諦めることもできるかもしれない。  だけど――― 「オーランド様…ごめんなさい。  頭ではわかっているんです。もうテオドール様のことは諦めるしかないって。でもまだ今は未練だらけで、頭がぐちゃぐちゃで。こんな状態でオーランド様のお気持ちに甘えるようなことはしたくありません」 「甘えてくれても全然いいんだけど…」 「だ、だめです。オーランド様は私にとって本当に大切な…かけがえのない仲間なのです。この一年間、何度助けてもらって、何度救われたことか。言葉では言い尽くせないくらい感謝しています。だからこそ、あなたの気持ちに応えれないのに中途半端に甘えて、利用するようなことしたくないんです」 「大切な、()()か…」 「ご、ごめんなさい」 「謝らないで。君を困らせたいわけじゃないから―――」  オーランドは少し寂しそうに笑った。ヴェネットの髪に触れようとのばした手を止め、思い直したように下ろした。        ◇ 「お父様、お母様、行ってきます」 「ああ。ヴェネット、気をつけてな。義姉上に宜しく伝えてくれ」 「ヴェネット、体調に気をつけて、無理はしないでね。いつでも帰ってきていいのよ」 「はい。お父様、お母様」  ヴェネットを乗せた馬車が屋敷を出発する。目的地は隣国に住む母方の伯母の家だった。 『俺のことは抜きにして、よかったら国には遊びに来てくれ。いい気分転換になるはずだ。この国みたいに留学の制度だってあるんだ』  卒業舞踏会で、あのあとオーランドにそう言われたヴェネットは迷いに迷った末、隣国に行ってみることにした。  オーランドの気持ちに応えられそうにない自分が隣国に行くのは身勝手だという葛藤もあったが、最終的にはテオドールへの気持ちに区切りをつけて、前を向くためには環境を変える必要があると思ったからだ。  隣国の伯母の家にしばらく滞在して、特に問題がなければ、手続きでき次第ヴェネットは隣国の王立学園に留学する予定になっている。  テオドールと婚約解消してから一年、ヴェネットの父も新しい縁談を探してくれていたが、なかなか見つからず頭を抱えていた。婚約者時代、テオドールに冷たい態度をとるヴェネットの噂を知る者は多く、評判の悪い令嬢をわざわさ婚約者にしたい貴族など余程訳ありでない限り存在しなかった。  隣国へ留学して、隣国の同年代の貴族令息たちと交流をもつのもいいだろうというのが父の意見だった。つまり父としてはこの際、隣国で婚約者を見つけてほしいようだ。 (ごめんなさい、お父様…)  新しい婚約者なんて今はまだ欲しくない。  隣国へと走る馬車の窓から外の風景を見ていても、ヴェネットが考えてしまうのはテオドールのことだった。  少し前にテオドールは文官の試験に見事合格し、来月からは文官見習いとして国立機関に勤め始めると聞いた。  ちなみに誰かと婚約したという話はまだ聞かない。 (フロレーラ様とはどうなったのかしら…)  ヴェネットは文官試験の合格祝い、もしくは自分の留学を伝えることを口実に何度もテオドールに会いに行こうと思ったが、「なんで来たの?」と冷たくあしらわれそうでそのたびに思いとどまった。  学園を卒業して、テオドールは嫌いな元婚約者のヴェネットに会わなくて済むとホッとしているかもしれない。わざわざ会いに行ったらきっと迷惑以外の何物でもない。  それでも、こうして国をしばらく離れる日になると、何か理由をつけて、会いに行けばよかったと思ってしまう。  ただ会って、顔が見たかった。  欲を言えばヴェネットに笑顔を見せてほしい。 (本当にどうしょうもないほど未練たらたらね…)  この一年で、テオドールが二度とヴェネットとやり直すつもりがないことは嫌というほど思い知ったのに。  なぜこんなに彼のことが好きなのか、諦められないのかヴェネット自身もわからない。  でも、初めて会って髪色を褒められたときからずっと彼に恋をしている。  呪いのせいでヴェネットが冷たくなっても変わらず婚約者として優しく接してくれた。  柔らかな薄茶色の髪も光の加減で色が変わるヘーゼルの綺麗な瞳も、彼のすべてが好きだった。  もし未練がましさ一位を競う大会があれば断トツで一位をとれる自信がある。  ガタンッ  その時、やや大きな音と衝撃があり、馬車が止まった。 「どうかしたのかしら?」  同乗していた侍女のエリーと顔を見合わせる。 「お嬢様申し訳ありません。車輪が泥濘にはまってしまいました。少しの間、馬車の外に出ていただけますか」  御者が馬車の扉を叩いて言った。  昨夜の雨で舗装されてない道が所々ぬかるんでいた。  泥濘から脱け出すため、御者が馬車を後から押すがなかなか進まない。  ここは街から離れた林道で、人影もほとんどない。見かねた侍女のエリーが助太刀に入った。  ヴェネットは改めて辺りを見渡す。道の両脇には木々が生い茂り、陽当たりも悪い。少し道を外れてしまうとすぐに迷子になりそうな場所だった。 (あれ…ここって?)  ドクンッ  心臓が嫌な音を立てた。  ヴェネットはこの場所に既視感があった。  このあたりは昔、ヴェネットが馬車の事故で死にかけた場所のすぐ近くだ。  道を外れてこの先は確か崖で、そこから12歳のヴェネットは馬車ごと転落したのだ。  魔女が気まぐれで現れなければ間違いなく死んでいた。 (いけないっ、早くここを離れないと…) 『このあたりにはもう近づかないほうがいいわ。私が来なければあなたはここで死んでいた。この場所はあなたと死を繋ぐ場所よ』  突然、魔女の言葉を思い出した。  なんで今まで忘れていたのだろう。  魔女に警告されていたのに。 「っ…」  ヴェネットは慌てて侍女に声をかけようとしたが、喉がしまって声が出せない。  そしてヴェネットの足は、彼女の意思に反してズルズルと進みはじめた。  泥濘にはまった馬車を必死に押す御者や侍女はヴェネットの様子に全く気がつかない。  林道を外れて森の中へと、見えない力に引っ張られるようにヴェネットの足は進んでいく。 「ひっ…」  ヴェネットの足が、向かっているのは記憶が正しければ崖のある方向だった。
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