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最愛
テオドールは隣国へと向かうヴェネットの馬車に追いつくため馬で駆けていた。
急に訪ねてきたスコットに彼の祖母の話を聞いたとき、思い浮かんだのはヴェネットのことだった。小さな頃からの付き合いであるスコットもおそらく同じように考えて、テオドールにこの話をしてくれたのだろう。
スコットの祖母と、ヴェネットにはいくつか共通点があった。
ヴェネットも過去、馬車で崖から転落し、普通だったら助からないような大事故だったにもかかわらず奇跡的にかすり傷程度ですんでいた。
そして、そのあとからだ。急に理由もわからず、彼女がテオドールにだけ冷たくなったのは。
もしかして彼女も命の危機を魔女に救われ、最愛の人に嫌われる呪いを受けたのだろうか――
冷たい態度は彼女の意思ではなく呪いだったのだとしたら――
テオドールと婚約解消した途端、ヴェネットの態度が急に改善したのは、呪いが解けたからなのか――
その考えがもしも正しければ、ヴェネットの最愛はテオドールだったということになる。
カッと頬が熱くなった。
そんな都合のいい話、あるわけがない。
第一、魔女なんておとぎ話の世界の住人だ。実際に存在しているなんて聞いたこともない。
とても信じられなかった。
このままヴェネットに追いついたとして、突然魔女の話なんてしたら、頭がおかしくなったのかと笑われるだけかもしれない。
それでも、ほんの少しでも可能性があるならテオドールは聞いてみたかった。
このまま隣国に行かせてしまえば二度と会えないような気がして、テオドールは道を急いだ。
◇
ガサガサガサ
林道から外れ、草木をかき分けてヴェネットは道なき道を歩いていた。足はまるで見えない力に引っ張られるように、自分の意思とは関係なく進み続ける。
『―――この場所はあなたと死を繋ぐ場所よ』
12歳のとき馬車の事故で崖から転落して、死ぬはずだったヴェネットを魔女は気まぐれに助けた。
ヴェネットは本来ここで命を落とすはずだったのだ。呪いの方ばかりに意識が向いていて、この場所に二度と近づかない方がいいという魔女の警告を今まで忘れてしまっていた。
死神がヴェネットを本来の死の運命へと引きずり戻そうとしているかのように、ズルズルと身体が崖の方角へと引っ張られていく。
数メートル先に、木々がなくなり空が見える。崖はもうすぐそこだ。
辺りは静かで、ヴェネットが草木をかき分ける音、そしてバクバクとうるさい自分の鼓動ばかりが耳に届く。
助けを呼びたいがヴェネットの喉は変わらずつまったままで声が出せない。
(エリーお願い、気がついて!)
一緒に来た侍女の名を心の中で呼ぶ。だが、もしヴェネットの不在に気づいたとしても、馬車のある林道からずいぶん離れてしまった。こんな木々が生い茂る中、見つけてもらうには時間がかかるかもしれない。
そうこうしているうちに、もう崖は目前だった。一歩踏み出せば足の先にはもう、地面がない。
あまりに絶望的な状況に、恐怖で心臓がきゅっと縮む。
こんなことになるなら、嫌がられても最後に会いに行けばよかった―――
(っテオ…)
踏みしめる地面がなくなり、ヴェネットの身体が下に傾いていく。
「ヴェネットっ!!」
その瞬間、強い力で引き上げられ、ヴェネットはもといた場所へ、引き戻された。
反動でどさりと地面に倒れこむ。
「ヴェネット!」
大好きなテオドールが心配そうにヴェネットを見ていた。彼の額には汗が滲み、荒く肩で息をしていた。
「テオ…」
「いったい何してたんだ!?もう少しで落ちるところだった」
険しい声でテオドールが言った。
「あっ…私…ごめんなさい。足が勝手に動いて、崖に引き寄せられて…」
助かったとわかっても、見えない力がまたヴェネットを崖へ引きずり戻そうとするかもしれない。恐怖がよみがえり、再びガタガタと身体が震えてしまう。
「あ、強く言ってすまない。ヴェネット、君が無事で本当によかった。僕がいるからもう大丈夫だから」
テオドールはヴェネットの手を優しく握った。
「テオ…ありがとう…」
「お嬢様ーっ、ヴェネットお嬢様ー」
侍女のエリーが必死にヴェネットを探す声が聞こえてきた。
―――
―――――――
泥濘から脱出した馬車は、幸い故障もなく走れる状態だった。しかしすっかり動揺した様子のヴェネットの大事をとって、いったん屋敷へと引き返すことになった。
馬車の中にはヴェネットとテオドールが乗っている。隣に座るテオドールはさっきからずっとヴェネットの手を握って離さない。
「少し落ち着いた?」
「ええ、テオ…ドール様。本当に、ありがとうございました」
「……テオでいい」
(?)
「テ、テオ…はどうしてここまで?」
「君にどうしても聞きたいことがあって、デール子爵に君の行き先を聞いて追いかけてきたんだ」
「聞きたいこと?」
「ああ。ヴェネット……君がさっき落ちそうになった崖は昔、君を乗せた馬車が転落事故を起こした場所だったよな?…もしかして君は、昔そこで魔女に会って命を助けられたのか?その代償に、呪いを受けたのか?」
矢継ぎ早にテオドールが尋ねる。
どうしてテオドールが魔女のことを知っているのだろうと、驚きでヴェネットは目を見開いた。
「あっ――」
テオドールの質問に答えようとしたが、やはりヴェネットの喉からは声が出てこない。
せっかくテオドールが真実にたどり着いたのにそうだと肯定することさえできない。もどかしくて辛い。
そんなヴェネットの様子をじっとテオドールは見ている。
「スコットから聞いたんだ。あいつの祖母も魔女に命を救われて、最愛の人に嫌われる呪いをかけられたって―」
テオドールはそこで言葉を切ると、なぜか照れたように一旦視線を外して、再びヴェネットへと視線を戻した。ヘーゼルの瞳が揺れている。
「勘違いだったら恥ずかしいが…君の、さ…最愛は僕だったのか?」
ヴェネットは固まってしまって、やはり声がだせない。すぐに頷きたいのに。テオドールが最愛だと伝えたいのに。
そんなヴェネットの様子を見て、少し考えたあとテオドールは言った。
「じゃあ、君は僕のことだけ特別ステッキだったのか?」
今度こそやっとヴェネットはコクコクと頷くことができた。
「そうだったのか…君がずっと苦しんでいたことに気づけなくてすまなかった。それどころか、婚約解消までしてしまった。君に嫌われていると思っていたんだ、お互いのためにももう関わらない方がいいって…
でも、もしまだ間に合うなら僕は君とまたやり直したい。何度も諦めようとしたけど、僕はヴェネットのことが好きなんだ。たとえ君が今は他の男が好きだとしても――」
「ほ、他の男の人?」
「君は今はオーランドのことが好きなんじゃないのか?」
「い、いえ違います。オーランド様は大切な友人です」
「友人?そうなのか…じゃ、じゃあ君は今も僕のことを?」
『君とまたやり直したい』『僕はヴェネットのことが好きなんだ』
信じられないほど嬉しかった。すぐに頷こうとしたヴェネットだったが、動きがとまる。
「テオ、とても嬉しい。でも…私、たぶんこのまま一生、あなたへの気持ちをストレートに言葉で伝えることができないかもしれない」
魔女の呪いによるものなのか、ヴェネットは大好きな人に“好き”だと伝えられない。一生このままかもしれない。
テオドールだって今はよくても不安に思うことがあるかもしれない。
「なんでもいいんだ」
「え…?」
「もし君が僕のことを好きなら、言葉なんてどんなものでもいい。ヴェネットは僕のことステッキなんだろ?」
そう言ったテオドールは、ヴェネットを見つめ、優しく微笑んだ。
目頭が熱くなる。
ずっとテオドールの笑顔が見たかった。
でも、もう二度と微笑んではもらえないと思っていた。ずっと願っていた彼の笑顔が目の前にある。
「っはい。ずっと、ずーっとステッキでした」
堪えきれず瞳から涙がこぼれ落ちていく。
「なら、なにも問題ない。僕はそれが君の愛の言葉だって、わかっているから」
ヴェネットの瞳からこぼれ落ちる涙をテオドールは優しく拭った。
ヘーゼルの瞳が愛おしげにヴェネットを見つめ、それが本当に嬉しくてヴェネットはしばらく涙をとめることができなかった。
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