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きっかけは些細なことだった。
今年のバレンタインデーは日曜日だから、たまには一緒に過ごそうとかそんな話だったはずだ。
だけど、俺の仕事は菓子職人。
しかも勤め先はチョコレートで名の通る有名店だ。
当日に準備する女の子は多くはないだろうが、それでも店頭でイベントを予定しているから、休むなんてことは考えていなかった。
『仕事が終わってからでいいだろ。まだ食事も出来る時間帯だし』
『あたしより仕事なんだ』
断っておくが、付き合い始めのわがまま女子が言いそうなその台詞を、彩月が口にしたことは一度もない。俺は僅かに違和感を覚えたが、彼女の不機嫌オーラが黒い雲のように、どんどん広がっていくのに飲み込まれてしまった。
『おまえだっていつも残業で約束に間に合わないだろ。待ってる身にもなれよ』
『いつもじゃないし。ちゃんと電話入れてるし。それに、仕事頑張れよって言ってくれたじゃない。あれは嘘なの?』
『何で今その話なんだよ』
『そっちが言い出したんでしょ』
あっという間にバチバチの平行線。
ただ、いつもと違うのは…
彩月が今にも泣き出しそうな顔をしていることだ。
目にいっぱい涙をためて、噛み締めるほどにぎゅっと結んだ唇が震えていた。
何だよ
俺 まだそんな酷いこと言ってないぞ
彼女の涙に怯んで戸惑ったのが分かれ道だったのかも。いつもなら言いたいことを吐き出して、怒りの熱が冷めてくると、ことの次第の滑稽さにどちらかが笑い出す。
そうしてまた俺たちは、お互いに手を伸ばして抱きしめ合い、仲直りのキスをする。
こんなふうに引きずるのは初めてで、俺は正直どうしたらいいかわからなかった。
「たまたま虫の居所が悪かったとか」
オーナーパティシエの雅さんはにやにや笑いだ。彼は俺より6つ上で、奥さんと子どももいる。
「うーん。それでも彩月にしたらしつこいんですよ。いつもならもうとっくに終わってるのに」
「確かに彩月ちゃんはさっぱりしてるけどさ。年頃の女の子なんだから、いろいろ悩んだり落ち込んだりもするんじゃないの。多分、そばにいて欲しいだけだと思うよ。お菓子にばっかりかまけてないで、たまには彼女も甘ーく包んであげたら?」
彼は喧嘩のたびに俺の愚痴を聞いてくれるけど、今日はなぜか彩月の肩を持つ。
どうせ 俺は鈍いですよ
俺はそれが面白くなくて不貞腐れた。
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