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吐き出された白い息が山の風に巻き上げられて踊っては消える。
彼女は帽子、手袋、上下のウエアを器用に脱いき、下に着こんでいた彼女の普段着が露わになった。バニラ色のニットセーターにブルーのデニムパンツ。
いつものユキネだ。
今日、この日のため。ユキネを印象付けるために。
明らかにユキネの死であると強く目に焼き付けるために。
彼女は普段から同じ服装を着続けていたのだ。
脱いだものと彼女の荷物を脇にやると、背後に広がる白いキャンパスにユキネが佇む絵が仕上がった。その姿にずっと見惚れていたいと思ったが、凍える前に済まさなければならない。
僕は自分のウエアからナイフを取り出した。厚手の手袋の上から柄をしっかり握り、刃が向かう先をしっかりと見定める。
先日切りそろえたばかりの彼女の黒髪がふわりと風に揺れると、穏やかな笑みをたたえて、
「さぁ」
迎えるように両腕を前に突き出し、冷たい風に晒されて赤みを帯びてきた掌を広げた。
すうっと息を吸い、長めにゆっくりと吐く。
僕はユキネの姿を欠片も取りこぼさぬようにしかと見据え、今度は大きく息を吸う。
そして渾身の力を込めてーーーーナイフをユキネの鳩尾に突き刺した。
じわりとセーターに赤い血が染み出し、僕の持つナイフから身を離し、スローモーションとなって背後の新雪に身を沈めた。
軽い衝撃とともに雪の飛沫が舞い上がり、傷口から噴き出す鮮血で周囲の雪が染まっていく。
今この時間のどこかの1フレームに死の瞬間があるかもしれないし、すべてが死の瞬間とも言える。雪の棺に横たわる彼女の姿は世俗の域を超えた美しさを放ち、当事者たる僕の網膜の奥に深く刻まれた。
愛する人を自ら殺したという圧倒的な思い出とともに。
頭の中を彼女の死に至るまでのストーリーを思い起こし、留め、それ以外の記憶を押し出した。僕たちが出会い、愛し、殺し、雪の中で魂が離れるラストシーンまで。
彼女が動かなくなってからどれだけ経っただろうか。
僕は最後の映像がしっかりと脳に保存されたとを確認すると、
「じゃあね」
と呟き、凍った血が付いたままのナイフを荷物に放り込み、踵を返した。
雪が解けたら彼女の亡骸はこの下に控える水の底に沈んでゆくだろう。
これで彼女の死は他の誰に知られることなく封じることができる。
僕以外の誰も知らない。僕しか知ってはいけない。
彼女の死を知る者には重要なな責務がある。
僕は帰らなければならないのだ。
生きて、この思い出を少しでも長くこの世に留めておくために。
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