思い出の絵画

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「直接触って確かめないとリアルに表現出来ない。つまり君の肉体の骨組み、肉づき、その柔らかみ、温かみ、肌の質感、そういったものが直接触れることによって手を通して筆に乗り移り、君の流れるようなボディラインをリアルに描けるって寸法さ」  穂高はデッサンが終わってポーズを崩し楽な姿勢を取る美愛の下に歩み寄って言ったのだった。 「嗚呼、なんとほっそりした美しい腕なんだ。それにこの手」  言いながら穂高が美愛の手を取り、もう一方の手で美愛の二の腕を掴んで、僕の手首位の太さしかないじゃないか、こんな細いのに…と言いながら胸の方に熱視線を注ぐと、美愛は突き刺すような鋭い目で穂高を睥睨した。その表情にもぐっと来た穂高は言った。 「何を怒ってるんだ。僕のやってることはすべて芸術の為じゃないか。さっき僕が言ったことも分かってくれないのかい?」  美愛が警戒して黙っていると、穂高は殊更に低い声で囁くように言った。 「大傑作を僕に描かせてくれ。お願いだ。報酬も弾むからさ。そうだなあ、今までの3倍出そう。だから…」  言いかけると、美愛は空いていた細腕と繊手で豊満な乳房を出来うる限り覆い隠した。 「な、なんだ、その拒絶的態度は!君は大家たる私に対して失敬にも濫りがましく思っているのかね」  もろ目が血走っている穂高に本来気が強い筈の美愛も身を竦め口を噤んでしまった。 「怖がらなくても良い。すべては芸術の為、そう思いなさい。そう信じなさい。出来るね」  二回り以上年が離れている上、財力も膂力も威厳もある穂高に気圧されてしまった美愛は、しおらしい体に変わって半ば震えながら細腕を下ろし、豊満な乳房を再び露わにした。 「うん、そうだ。それで良い」  言いながら穂高はすっかり機嫌を直した。 「んー、君は全く素晴らしい。全く素晴らしい」  そう繰り返してから穂高はにやけそうになるのを必死に堪えながら柔肌に触れて行き、冥々の裡に愛撫して行き、美愛は不覚にも感じて濡れて行った。そうなると、もう駄目である。人間の情欲は決壊したダムの瀑布みたいに堰き止められない。穂高もそこまでする積もりはなかったのだが、興奮が最高潮に達して最後まで行ってしまった。 「嗚呼、妻がありながら俺は…而も芸術の為と言っておきながら俺は…」  しかし美愛の身体を完全に知ってしまった穂高は、冒頭の言葉以上に功を奏して美愛の裸婦画を極めてリアルに描き切り、魂の籠もった生気迸る至高の美と絶賛される大傑作を生み出すことになるのであった。だから名実共に写実派の巨匠となった次第だが、妻の真美子のジェラシーは紅潮した顔が如実に物語るように赤々と燃え上がった。それは夫たる穂高に対してよりも美愛の美に対してであった。 「あなた!あの小娘をどうしてあんなにももって描いた訳?」 「いや、別にもった訳ではなくてね、お前は小娘と言うが、ま、お前から見れば、そうかもしれないが、しかしだねえ、出るべき所はボンと出て括れるべき所はキュッと括れ手足のすらりとした上背のある若くて美しい成熟した()なんだ。それを忠実にリアルに描いたまでだ。そして大成功を収めた。それの何が悪い?」 「悪いとは言ってないわよ。だけど、あなた、褒めすぎよ!何持ち上げてんのよ!」 「いや、持ち上げてんじゃないよ。さっき言ったろ」 「ふん、何さ、面白くない」 「ははぁん、お前、あの娘に妬いてんな」 「違うわよ。あなた!まさか、あの小娘と浮気してんじゃないでしょうねえ」 「い、いや、そんな筈はない。何しろ俺とあの娘は画家とモデルの関係なんだ。それ以上でもそれ以下でもないんだ。そんなこと言わなくても分かってるだろ」 「ふん、どうだかね…」 「お、おい、勘ぐるのは止せよ」  美愛の美に嫉妬する余り真美子の夫に対する疑惑は募り、募れば募る程、穂高は美愛に気持ちが傾くのを禁じ得ない仕儀となった。  美愛はと言うと、穂高のお陰で懐が多分に潤ったし、自分の美が芸術として全世界に知れ渡り、それは女としてこの上なく喜ばしいことだし、名誉なことだから穂高に多大な恩恵を感じる上、穂高の優しさ(と言っても美人に甘いだけだが)と包容力と渋さと何と言っても財力に魅力を感じて穂高を尊敬するまでになり、実は秘かにプライベートでも穂高と交際を始めていた。で、真美子は疾っくに薹が立っているし、そうでなくても美愛の方が遥かに魅力的なのだから穂高は出来ることなら真美子と別れて美愛と一緒になりたい、そのきっかけが欲しかった。それを自ら作った。と言うのは穂高はスケッチ旅行と称して独りで出かけ、美愛とランデブーしながら各名所を巡り、上高地を訪れた時、河童橋から穂高連峰を望む美愛を梓川の河原で描いた自然主義絵画が反響を呼んで当然の如く真美子の癇に障ったのだ。何せ裸婦画のモデルと同一人物であることが見て取れたから穂高と美愛は画家とモデル以上の密な蜜な関係と読み取れたし、純白のミンクのコートを着た美愛と雪化粧した穂高連峰とが絶妙にマッチし、冬芽が赤く染まって情念の如く燃ゆるケショウヤナギとのコントラストも素晴らしく、別けても紅をさした白皙の美人たる美愛の雪の妖精を思わせる可憐さが水際立ち、これらの要素が話題を攫ったのだから然もあらん。  マスコミに有名画家が超絶ナイスバディの美人モデルと不倫と報じられる中、穂高は弁解の余地なしだ。そりゃそうだ。自らそう仕向けたのだし、真美子にしたらとんでもない仕打ちだ。ミンクのコートまで買ってやったんだな、何の恨みがあってあんなもん見せつけやがったんだと言わんばかりの形相で真美子に詰め寄られると、穂高は頗る怯みながらもあっさり美愛との恋愛関係を認め、蒔いた種は自分で刈り取るべく慰謝料は幾らでも払うからと離縁を迫った。すると真美子は悔し涙に咽び、泣いて泣いて泣き捲った挙げ句、億単位要求した。穂高はそれにも頗る怯みながらもあっさり呑んで離縁は成立し、晴れて美愛と結婚の運びとなった。で、二人にとって記念すべき思い出の絵画は破格の値がついたが、穂高は高額の慰謝料を払った後にも拘わらず売って堪るかと自邸のリビングに飾ったのだった。
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