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*五章の壱 ゆるりと甘い紺との日々
紺を拾った翌朝、ぼくは谷先生との約束通り近所の交番に紺を連れて行った。
服は結局昨日先生にもらったものしかなくて、そのままの格好だったけれど、ないのだから仕方ない。
お巡りさんの小林さんは、紺に関して失踪届が出ていないかとかを色々調べてくれたけれど、それらしいものは特に出ていないと言う。
「こう言っちゃなんだけど……銀髪に長髪で目立つ姿だし、名前も珍しいから、何かしらの届が出てたら憶えてるとは思うんだけど……」
「そうですか……」
しかも紺は自分の苗字もわからないみたいで、そういうのもあって、彼がどこから来た何者なのかはわからずじまいだった。
「ごめんね、何にも力になってあげられなくて」
交番からの帰り道、自然公園の遊歩道を歩きながらぼくが溜め息交じりに言うと、紺はゆるゆると首を横に振る。
「いえいえ、いいんですよ。緋唯斗が私のために頑張ってくれたのが嬉しいんですから」
ありがとうございます、と紺は微笑んで、そっとぼくの手を取る。
長くてきれいな指先がぼくの手を包み込んで伝わってくるぬくもりが心地よくて、ぼくはしばらくぼぅっと紺を見つめてしまう。
……なんでだろう、ぼくも紺も男なのに……ちっとも嫌な気持ちがしない。それどころか心のどこかがときめくような、嬉しいような気持ちさえしていた。
ただ紺がカッコ良くてきれいだからというだけじゃなくて……紺がぼくのことをきちんと肯定してくれるのがすごく嬉しい。なんだかもう今はいない両親のぬくもりを感じているような、そんな安心感がある。
それと、いままで感じたことがないような、ほんのり甘くさえある感情にぼくは驚きつつも、それに無理に蓋をしてしまおうとは思わなかった。
手のひらの上に載せて、そっとお日さまの光に透かしながら眺めていたいような、そんな気さえしていたから。
紺に繋がる手掛かりがなかったので、仕方なくアパートに戻って、ぼくらは昼ご飯を食べることにした。
「残り物で悪いけど、よかったら食べて」
そう言ってぼくがプレート皿に昨日バイト先でもらってきた煮物や和え物、それから稲荷寿司を並べて食卓代わりのこたつ机に出した。
お皿を前にして、紺はぱぁっと顔を輝かせた。その目はお皿の上の稲荷寿司に注がれている。
「これ、いただいてもいいんですか?」
「どうぞ。稲荷寿司、好き?」
「大好きです!」
それはよかった、とぼくが言うよりも早く、紺はさっそく箸で稲荷寿司を取り、パクリと一口で食べてしまった。細面の頬がぷっくりと膨れて子どもみたいにかわいらしく見える。
「もう一つもらっても?」
「うん。どうぞ」
ひとつを頬張りながらさらにもう一つに箸を伸ばそうとする紺に驚きながら頷くと、紺は一層嬉しそうに微笑んでまた稲荷寿司を取る。
丁寧な言葉遣いをして、自分がどこから来たのかもわからないのに冷静でいられるくらいに大人な雰囲気なのに、稲荷寿司でこんなにかわいらしい姿になってしまう紺の思い掛けないギャップに魅せられてしまった。
「ああ、美味しい! これはどちらのお寿司ですか?」
「この稲荷寿司も、おかずも、みんなぼくのバイト先のお店のだよ」
「じゃあ、このお稲荷さんは緋唯斗が作ったんですか?」
「作ったって言うか……ぼくはご飯をお揚げに詰めただけだけど」
「上手です。とても美味しい!」
紺が二個目の稲荷寿司を頬張りながら微笑んでそういうものだから、ぼくはすごく嬉しくて、嬉しさのあまり顔がかぁっと赤くなっていくのを感じた。
ぼくはお総菜屋でバイトしているけれど料理が得意なわけではないし、妙なものを拾ってしまうこと以外にぼくには取り立てて取り柄はない。小柄で童顔で、頭の出来だってそうたいしたものじゃない。
だけど、紺がぼくの作った稲荷寿司をまるでこの世で一番美味しいもののように頬張ってくれるのがたまらなく嬉しい。
またたく間に紺はぼくが作った稲荷寿司を美味しそうにパクパクと全部食べてくれた。
食後に買い置きのペットボトルの麦茶をコップに注ぎ分けたのを飲みながら、紺はとてもしあわせそうにとろかせた表情で溜め息をつく。
「ああ……本当に美味しかった。ごちそうさまでした、緋唯斗」
「美味しかったならよかった」
「これ、また食べられますか?」
「バイト先で余ったら、になるけど……そんなに気に入った?」
驚くぼくに紺は、はい! と小さな子どものように笑って頷いた。紺は、稲荷寿司がとても好きみたいだ。
稲荷寿司に満足してうっとりと細められた紺の目は、まるでの狐のお面みたいにも見えたけれど、ちっとも怖くない。むしろやさしく穏やかに見える。
紺の好みって、伝説でよく聞く狐みたいだな、とも思った。稲荷寿司が好きだなんて、稲荷神社とかのお狐様みたいだな、って。
(――今度店長に頼んで、稲荷寿司の作り方一から教えてもらおうかな?)
そんなことを思ってしまうくらいに、ぼくは紺の食べぶりと言葉が嬉しくて仕方なかった。
紺に稲荷寿司とかきつねうどんとかいっぱい食べさせたら、何かいいことが起きたりしたりして……そんなことを密やかに思いながら、ぼくは煮物のシイタケを口に運んだ。
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