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*六章の壱 紺の不思議な嗅覚は愛の力?
「行ってらっしゃい、緋唯斗。くれぐれも落とし物を拾って自分が迷子になったりしないように」
「大丈夫だよ。じゃあ、いってきます」
いってらっしゃい、と紺はぼくに手を振り送り出してくれた。
ドアを閉め、鍵をかけてポケットにしまいながらぼくは溜め息をついて苦笑する。ぼくがあまりに日々落とし物や迷子に遭遇する話をするからか、紺がヘンに心配してあんなことを言うようになった。それがまるで今はもういない家族……両親を思い起こさせて懐かしいような切ないような気持ちにさせる。これもまた誰かと暮らすことなのかな。
ぼくはアパートから歩いて十分くらいのところにある私立七福大学というところに通っている、この春から大学三年生だ。
そろそろ卒業論文を視野に入れたゼミ選びなんかが始まる時季で、どこのゼミの教授がやさしいかとか、卒論が通り易いかとかの情報戦めいたことが日々飛び交っている。
ぼくが教授たちの研究室がある建物でゼミ生募集の用紙を眺めていたら、一枚の学生証のカードが落ちているのを見つけた。
拾ってみると、それは英文科の四年生、吉田勇人さんのものだった。
吉田さんはぼくでも知っているくらい学内で有名な、カッコ良くて頭がよくて……っていう、いわゆる才色兼備で親が医者だか何だかっていう人だ。
明るい栗色のショートヘアの、堀の深い特徴的な目で微笑んでいる吉田さんの完璧な顔写真を眺めていたら、「へぇ、ホントになんでも拾うんだなぁ」と、背後から声をかけられた。
びっくりして振り返って、ぼくは更に驚いた。手元の学生証の顔写真そのままの男子学生が立っていたから。
「探してたんだよそれ、助かったよ」
「そ、そうですか……」
完璧な笑顔がきらきらとぼくに向けられていておどおどしながら学生証を手渡した。
これがリア充と言うやつか……と、目が眩みそうになっていたら、吉田さんから思いがけない言葉をかけられた。
「ねえ、キミってなんでも拾っちゃうんだって?」
「ええーっと……」
「人も拾っちゃうってホント?」
「え、ええ、まあ……拾うって言うか、迷子ですけど」
「すげぇなぁ……じゃあさ、結構お礼とかもらったりする?」
「まあ、たまには……」
ぼくの拾い体質は、同じゼミ内とかの一部の学生の間では知られているかなという気はしていたけれど……まさかあの英文の吉田さんにまで知れ渡っているなんて。
嬉しいのか恥ずかしいのかわからない複雑な気持ちでいるぼくに、吉田さんはにっこりと――でもどことなく舌なめずりをするねっとりとした――微笑みを浮かべてこう言った。
「案外キミ、かわいい顔してるね。これからメシでも行こうよ」
「いや、その……」
「俺、いまフリーなんだよねぇ……拾わない? イイコトしに行こうよ」
「え、いや、その……」
ぼくはその瞬間、身体中に悪寒が走った。いままでのどのトラブルの時より、ずっと不快にねっとりとしていて陰湿な感じの寒気。
ぼくは、吉田さんの絡みついてくるような眼差しと微笑みに捕らえられて指一本動かせないでいた。――喰われる…… 本能がいま危機的な状況だと頭の中でサイレンみたいに警告音が鳴らしているのに。
ぼくが瞬きすら、呼吸すらもできないくらいに壁に追い詰められていたら、視界いっぱいに映し出されていた吉田さんが右真横から伸びてきた腕に突き飛ばされた。
え……? と、ぼくが呆気に取られている間に、吉田さんはぼくの前から吹っ飛んで床に転げる。
「いってぇ……おい! なにすんだよ!」
「す、すみませ……」
何が起こったのかわけがわからないぼくが慌てて吉田さんの許に駆け寄ろうとしたら、その前に人影が立ちはだかった。
フロアの灯りを反射させて煌めく長い銀髪、壁のように高い背中、そしてぼくを護るように広げられた長い手足。
ぼくの上に影を成すように立ちはだかったそれを見上げると、向こうもこちらを振り返った。
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