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*六章の弐
「まったく……油断も何もあったもんじゃありませんね……」
「紺? どうし、て……」
驚きを隠せない声でぼくが名前を口にすると、紺はゆったりと微笑んで、そしてすぐに目の前で唖然としている吉田さんの方を睨みつける。
紺の切れ長の目に睨み据えられた吉田さんは、それまでぼくにわめきたてていた声を一気に潜める。
「な、なんだよお前……俺はそこのちんちくりんと話してんだよ。お前は関係な……」
「ちょっとお痛が過ぎますよ、あなた。私の大切な彼に誘惑をかけて、その後どうするおつもりなんです?」
「……べつに。なんでも拾う変なヤツだって聞いたから、暇つぶしにいいかと思っただけだよ」
吉田さんは才色兼備で、振りまく笑顔は最高にさわやかで、言動もそうだとかって話を聞いていたんだけれど……いま目の前で乱れた髪を苛立たしく掻いてぼくらの方を睨んでいる彼は、とてもそうは見えなかった。
ぼくは特に吉田さんに好意を持っているわけじゃなかったけれど……それでも、そんな出来損ないのオモチャみたいに言われたのがショックだった。
泣くほどではなかったけれど言い返せないくらいのショックは受けていたから、ぼくは口を噤んで俯いていく。
「……そうですか、では……あなたにはこんなくだらないことを考えるような暇を与えないようにしてあげましょう」
静かだけれど激しい怒りに満ちた声でそう言ったかと思うと、紺はパチン、と指を鳴らした。
……何か、起きたんだろうか? ぼくも吉田さんもぽかんとしていたら、急に何かが鳴り出した。吉田さんのスマホの着信音だ。
「はい? 吉田は僕ですが……え? ちょ……そんな、うそでしょう⁈ 待ってください!」
電話に出た吉田さんの顔色がたちまちに青ざめていく。さっきまであんなに余裕に満ちた顔をしていたのに。
ぼくが理由を問うように紺の方を見たら、紺は、「さ、行きましょう」と言ってぼくの手を牽いてその場を後にする。ぼくらの背後では、吉田さんが悲鳴じみた声で電話を続けていた。
あれから、吉田さんがどうなったのか、ぼくはよく知らないんだけれど……電話の様子からして何かとんでもないことが身に降りかかったのはたしかみたいだ。
気の毒だなぁって思ったのと同時に、なんで紺がぼくの大学の中の、それもピンポイントでぼくがいた場所に現れたのかがわからなかった。
わからなかったけれど……ぼくは拾い物によるトラブルから寸でのところで紺に助けられたことになる。
「緋唯斗には私がいないとですね」
そう、大学からの帰り道、紺が困ったように微笑んでぼくに言った。
たしかにその通りかも……と、思えるほどに、ぼくは紺の存在が有難い。
そして紺は、ぼくがトラブルに巻き込まれたことを怒るんじゃなくて、無事であることを喜んでくれる。それがなんかすごく嬉しい。
「ねえ、なんで紺はぼくがいるところがすぐにわかったの?」
紺に思い切って訊いてみたら、紺はくすりと笑ってこう答えた。
「緋唯斗がいそうなところからは緋唯斗の良い香りがするのです。私は鼻がいいので」
「えぇ⁈」
「冗談ですよ。どうしてなのかは、ひみつです」
「ええー?」
「では、愛の力とでも言っておきましょうか」
愛の力――思ってもいなかった言葉に、ぼくは思わず顔が赤くなった。また紺の冗談でからかわれているだけかもしれないのに。
でも――少し前を行く銀色の長い髪がなびくのを見つめながら、ぼくは思った。でも、そういうのもいやじゃないな、って。
その感情にどんな意味があるのか、本当はどうして紺はぼくの居場所がわかってしまうのかは、謎のままだった。
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