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*七章の壱 突然現れた見知らぬ男からの求婚と紺の怒り
紺がぼくのところに来てそろそろ一ヶ月近く経とうとしている。
もうすっかり紺はぼくのアパートの部屋になじんでいて、ぼくがいない時は時々大家の稲毛さんの家に招かれてお茶を飲んだりしているらしい。
稲毛さんに稲荷寿司のお揚げの味付けのコツを最近教えてもらったとかで、ここ最近は毎晩のように稲荷寿司が食卓に並んでいる。
「今日は枝豆ご飯を詰めてみました。どうです?」
「ん~! 美味しい! 紺、すごく上手になってるねぇ」
たかが稲荷寿司、されど稲荷寿司。稲毛さんにお揚げの味付けの他に中に詰めるご飯のバリエーションも伝授してもらったみたいで、おかげで毎日食べていても飽きが来ない。
それだけじゃない料理も紺はすごく上手だ。数日で二千円もないくらいの食費しか渡していないのに、それはそれは美味しいご飯をいつも用意してくれるのが本当に不思議だった。
「ねえ、なんでいつもこんなに美味しいもの作れるの? 正直、ぼくが渡すお金だけじゃ足りなくない?」
ある晩ぼくが思い切って訊いてみると、紺はいつものように、「ひみつです」とは言わずに、くすりと笑ってこう答えてくれた。
「緋唯斗のおかげですよ」
「ぼくの?」
「緋唯斗がいつも商店街の人たちの落とし物をちゃんと届けてくれて、迷子も迷い老人もちゃんと保護してくれるから、そのお礼としてちょっとおまけしてもらうことが多いんですよ」
「え、そうなの⁈」
初めて聞いた話に、ぼくは思わず立ち上がりそうになった。
親の教えで人に親切にすることと、その一環で拾い物による縁を大事にすることがぼくのモットーみたいなものだけれど、まさかこうして食費が助かるような事態になるなんて思ってもいなかった。
本当に親切は自分に還ってくるんだ……少し期待はしていたけれど、こんな風に現実になるなんて。
白川くんはじめ、色んな人から拾い物するなんて危なくないか? とか、果ては、馬鹿なのか? なんてことまで言われることが多かったぼくにとって、紺から聞いた話は最大の誉め言葉のように思えた。
だからまるでぼく自身のことを全肯定してもらえたような嬉しさがあって、胸の奥がきゅん、と高鳴るのを感じた。こんな風にぼくを丸ごと認めてくれるのって、いまは亡き両親以外になかなかいないから。
懐かしいような嬉しいような気持ちで照れ臭くなって、ぼくは顔が赤くなっていくのが止められない。
「緋唯斗」
「うん?」
「私のことを拾ってくださってありがとうございます。お陰で、私は毎日がとてもしあわせです」
「うん、ぼくも」
紺が来てから美味しいご飯のおかげだけでなく、ぼくもまたしあわせな気持ちでいっぱいだ。
朝、ぼくと一緒に目覚めて、ご飯を一緒に食べて、外から帰ってきたらぼくのことを美味しいご飯と一緒に待ってくれている人がいる。
紺に、「おはようございます」とか、「おかえりなさい」とか言ってもらえると、ぼくはたまらなくしあわせで甘い気持ちで胸がいっぱいになる。
その気持ちが紺の中にもあるってわかって、ぼくは最高に嬉しくてしあわせな気持ちで満たされていく。
紺が迎えに行くって約束した人が、ぼくならいいのに……そう、いつの間にか思うようになっていた。紺と、紺がやって来たところに一緒に行けたらいいのに、って。
旅行とか、遊びに行くとか、そういうのとは違う、もっと長くて密な関係になってそうなったらいいのに……そんなことを思う。ぼくも紺も、男なのに。
いつか、紺は約束したのが誰だったのか、どこから来たのか、思い出してしまうんだろうか。
紺は、あの夢の中に出てきた狐耳のひとにすごくそっくりなのに……そんなこじつけをして願ってしまうほどに、ぼくは紺とずっと一緒にいたいと思っている。
夢は夢でしかない。紺がコンと同じ読み名の名前であるのと同じように、ただの偶然でしかない。
なのに……ぼくはこの巡り会わせを単純な偶然の一致と片付けられないんだ。いっそ、抗えない運命ならいいのに……なんて、漫画のようなことを想像したりもしたりするほどに。
(――せめて、この生活が一日でも長く続きますように……)
ぼくが祈れることは、叶えてもらえそうなことは、これぐらいしか思いつかなかった。
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