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*十一章の弐
「……あ、れ?」
次に目を開くと、そこはいつものぼくのアパートの部屋だった。
ぼくは裸でも着乱れた姿でもなくて、ちゃんといつものパジャマ代わりのスウェットを着ていて、シャツを捲っても肌は汗も精液もついていない。
身体……お尻とか腰もどこも痛くなくて、むしろいつもよりすっきりしている目覚めだ。
「夢……だったの?」
紺とセックスしたのも、紺のお嫁さんになると叫んだことも……お腹に、何かが入ってきた気がしたのも。
しばらく状況が呑み込めなくてぼうっとしていたぼくだったけれど、ハッと我に返って枕元にいつも置いているスマホをつかんだ。
画面に表示された日付は大学の講義が始まる日の朝七時半だった。
「やっばい、学校!」
ぼうっと身体を起こしていた布団からだ慌てて立ち上がって、ふすまの向こうの台所に向かう。
眩しいくらいの春の朝日が射しこむ台所のコンロの前には――いつもと変わらない、長い髪を後ろに結んだ紺が卵焼きを作っていた。
紺はぼくが六畳間から飛び出してきたのに気づいて振り返り、やわらかく笑う。
「おはようございます、緋唯斗。朝ごはん、できてますよ」
昨日……たしか、昨日、ぼくに襲い掛かってきた狼みたいな雰囲気が全くない紺の様子に、ぼくは心底ほっとしてその場に座り込んでしまったほどだ。
「緋唯斗? どうかしましたか?」
「……よか、った……いつもどおりだ……」
ほっと息を吐いて、ぼくは不思議そうな顔をして覗きこんでくるスウェット姿の紺を見上げた。変わりない、いつものきれいな切れ長の目がぼくを映している。
「なんでもない……朝ごはん、食べようか」
やっぱり、昨日の出来事だと思っていたこと――ぼくと紺がセックスしたかもしれないことは、ぼくが見た夢のひとつだったんだ……安堵するのと同じくらい、ぼくは心のどこかでそれを信じていいのかわからずにいた。
紺が作ってくれた朝食のお味噌汁も卵焼きもどれもいつもどおり美味しかったけれど、何かが違っているようにも思えた。何なのかは、わからなかったけれど。
「緋唯斗、今日から学校でしたっけ?」
「うん。お昼前から講義が一つあって、午後にも一つ。それからたんぽぽのバイト。」
「そうですか。今夜は何が食べたいですか?」
「そうだなぁ……久しぶりにきつねうどんかな」
「いいですね、そうしましょう。――緋唯斗、」
「うん?」
「くれぐれも転ばないように、気を付けて。大事な身体なんですからね」
「え? う、うん……?」
まるでぼくがとても小さな子どものような……いや違うな。うんと慎重に行動しなきゃいけない身体をしている人のような……例えば、お腹に赤ちゃんがいるような人のような紺の言葉に、ぼくはきょとんとしていた。
紺は、いつものようにやさしく微笑みながら卵焼きを摘まんでいる。
春の陽射しはあたたかで、まるで昨日の……夢の中で感じた紺の肌のぬくもりみたいだった。
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