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*二章の壱 「コン」との出会いとぼくの後悔
白川くんが「あの事」と言っていた狐のこと――コンと出逢ったのは、一週間くらい前だ。
夕方、いつものようにバイト先のたんぽぽから自然公園の遊歩道の中を通ってアパートに帰っていると、植え込みの周りでカラスが数羽騒いでいた。
「なんだろ?」
エサの取り合いでもしているんだろうか? と思ってなんとなくその植え込みの奥を覗いてみたら、そこだけ雪が積もっているみたいに真っ白な積もりたての雪のような塊が見える。
――生き物……白い、犬……? 白いものの正体を確信して傍によってさらに驚いた。白いと思っていた毛並みの下には真っ赤で痛々しい傷が見えたからだ。
カラスたちはきっとこの犬の血のにおいを嗅ぎつけて騒いでいたんだろう。まさにエサにするために。
脳裏に過ぎった光景に背筋が凍ったぼくは、カラスを追い払って急いで拾った犬の身体を抱え上げて獣医の谷先生の病院へ駆け込んだ。
腕の中の命の火が段々とか細くなっていく感触がじわじわと伝わってきて、ぼくは居てもたってもいられなかった。
「おいおい、今回は狐じゃないか。どこで拾ってきた?」
谷先生は休診日だったのにもかかわらず、急患の犬――と思っていたものは、実は手負いの白い狐だった――を受け入れてくれた。
「そこの公園の藪の中にいたんです……って、狐なんですか⁈ この子」
「パッと見、素人だと見分けがつきにくいんだよ。これは狐。それも銀狐だ」
「銀狐……」
「それより、しっかり手を洗って。消毒も念入りにな。手負いの野生動物触ったんだから」
先生に狐を診てもらっている間、ぼくは手負いの野生動物に触れてしまったので念入りに手洗いと消毒をして再び診察室に入ると、谷先生は険しい顔をして腕組みをしている。
「……こいつは厳しいぞ、緋唯斗くん」
だけど、谷先生が狐を診て開口一番の言葉はかなり厳しいものだった。
狐はどこかで大きな犬にでも噛まれたようで、命からがら公園のあの場所に逃げてきたところをカラスに襲われていたのだろうと谷先生は言う。
「……助かりますよね、先生」
「何とも言えん。最善は尽くす、と言っておくが……過剰に期待もしないでくれ」
お願いします、どんなことしても助けてください! と、ぼくはすがるように言ったのを、谷先生は複雑な顔をしてうなずく。
手術は夜遅くまでかかり、ぼくはずっと待合室で待つことになった。
晩御飯を食べることも忘れて、あの狐が助かってくれるならぼくがどうなったってかまわないから、とずっと祈っていたほどだ。
どれぐらい待合室のソファに座ったり立ったり、フロアをうろうろしていただろう。
「終わったよ」と、手術を終えて疲れきった顔で谷先生に告げられた時やっと息ができた気がしたくらいにホッとした。
だけど、谷先生の顔から狐の容体があまり良くないのはすぐにわかった。
「お別れをしてやりな。ひとりきりじゃさびしだろうから」
谷先生からそう促されてぼくは狐が横たわる手術室に入れてもらうと、小さな動物の手術台の上に狐はさっきまで真っ赤だった身体をきれいにしてもらって横たわっている。
白い毛並みにそっと触れるとそこはまだやわらかで、ほんのりあたたかでもあった。
「――……コン」
密かにつけようと思っていた名前をぼくがそっと呼ぶと、それまでぐったりしていたように見えたのに気だるげにぼくのほうに目を向けた気がした。真っ黒な夜色のガラス玉みたいな眼の中に、泣き濡れたぼくの姿が映し出される。
名前を付けてあげたら、きっとまた会えるんじゃないかと思えた。例えば、うんとぼくが歳を取ってこの世から消えた後の世界とかで。名前をつけることはそんな儚い約束を交わすことに似ていると思う。
ぼくがそっと腕で囲って頭から背中にかけて触れて撫でてやると、コンはまたぐったりと、だけど心なしか気持ちよさそうに目を閉じる。
「……ごめん、ね……助けてあげられなくて……また、必ずどこかで会おうね……」
零れ落ちてくるぼくの涙を浴びるように受け止めながら、コンはその内段々と上下させていたお腹の動きを弱めていって、やがてそれもゆっくりと止まってしまった。
腕の中のコンはまだかすかにあたたかいのに、さっきまで感じていた小さな鼓動も呼吸も、いまはどこにもない。
コンの息が途絶えたのを確かめた瞬間、ぼくは胸の中が空っぽになったような感覚に襲われた。
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