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後編
実のところ私は手品師で、トランプのカードを貴方の胸ポケットの中から消すが如くカメムシを……
消せるならとっくにやっている、私は虫が苦手なのだ。
それに手品にはタネも仕掛けもあって、トランプは別の場所から出てくる。
しかしカメムシは出てこない。
ならばカメムシは、私の隙をつき移動したのだ。
それはいつ、どのタイミングか。
あのとき確かに私はカメムシを、穴があくほど凝視していた。
敷地外へ出るまでずっと、見守り続ける覚悟だったからだ。
私は瞬きする間も惜しみ、息も止めていた。
そんな全集中の私から逃れるためにはと、逆の立場で考える。
慌てて動けば先方(この場合は私)を驚かせ、逃げるだけのつもりが抹殺されかねない。
気配を消して隠れ続けても、ブラシの隙間の確認作業で殺される。
動いても・動かなくても・待つのは死
━━安い川柳だ。
だがこの五七五が全てを物語っていて、先方にそのつもりがなくても、結果は平気で裏返る。
「殺すつもりはなかったんだ」
「全然こんなはずじゃなくって」
想像上の取り調べ室には、犯人に扮した私がいる。カツ丼が食べたい。
そんな間にも刻一刻と時は過ぎ、私は洗濯物を干したくなる。
見上げた空には雲ひとつなく、春とは思えぬ激しい陽射しが注いでいる。
そうか、カメムシは時間を操ったのだ。
カメムシは自分以外の時を止め、その隙に危機から逃げ出した。
再び時が動き出した折りにはもう、カメムシは私の視界の遥か外だ。
ベランダには残されたデッキブラシとサンダルと、これから洗濯物を干すためのハンガーがあるだけだ。
太陽が相変わらず強く照り付ける、カメムシのいなくなったベランダで、もう一度進み始めた時の中で。
私は懸命に洗濯物を干した、カメムシの無事を祈りながら。
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