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「それじゃ、そろそろ稽古に戻るね」
光枝さんが周りに一声かけると先輩たちは稽古の準備に戻った。面を付けたと思うと、男子と女子が別れて稽古を始めた。基本の打ち込みは男子と一緒に行うが、応用の練習は別れて行うらしい。光枝さんが声を上げて仕切ると、かかり稽古が始まった。元立ちが打ち込む箇所を開け、掛かり手が開けた場所を即座に打ち込む激しい稽古だ。バシバシと激しく竹刀のぶつかる音と踏み込みの音が武道場内にこだましている。
「神谷葵です。竜海大付属中学からきました」
先輩たちの稽古を目に捉えながらその言葉を反芻していた。一噛みすると敗戦の悔しさが。もう一噛みすると自分の弱さに対する不甲斐なさが。さらに一噛みすると神谷の強さに慄いた記憶が。飲み込み切れない感情が腹の中にうずくまり、淡々としたトーンの葵の声が頭の中で反響する。勝負から逃げた。影のようにひたりひたりとついてくるコンプレックス。そんな感情を与えたきっかけである神谷が目の前にいる。
「あの」
私が勇気を振り絞って出した、か細い声は稽古の音でかき消される。
「ねえ!」
心臓がバクバクした。今にも飛び出そうだった。こちらに気付いた葵は顔をすっとこちらに向けた。葵と目が合う。バンバンと武道場から踏み込みの音が響き渡り、少し汗臭い空気が鼻を通る。もわっとした湿気が稽古の動きで渦巻き撹拌されている。
「私のこと、覚えてる?」
「……ああ」
「城南の富永。団体で当たったよね」
「う、うん」
ばくん、と心が跳ねるような心地だった。まさか覚えられているとは。思わず話が止まってしまった。にやけそうになる口元を必死に抑えながら、私は話を続けた。
「びっくりしちゃった。まさかここで出会うとは思わなかった」
「印象的だったからね」
葵は仮面のような表情を少し崩し話した。今までぴくりとも表情を動かさなかったから少し驚く。
「剣道部、入るんでしょう?」
葵は自信ありげに口もとを上げながら私に問いかけた。
「……そうね」
もうあんな惨めな敗北はしたくない。真剣勝負から逃げたい。その思いのまま勉強をして、たどり着いた泉高校だった。そんな自分がずっと情けなかった。それでも。私に付きまとう影を振り払うような葵の挑発する目つきが、武道場の熱気が私の背中を押した。
「もう少し他の部活を見てからにしようかな」
言いかけてやめた。そんな誤魔化しすら野暮なような気がした。
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