第一章 鬼ヶ島からの脱出

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第一章 鬼ヶ島からの脱出

◆1:闇夜の謀殺◆ ―――――――――― 時は天正七年(一五七九)八月。 かの織田信長が、天をも焦がさんと日ノ本各地で戦火をあげていた頃。その禍々(まがまが)しき火の粉が、ついに伊賀の里にも降りかかろうとしていた。 いまだ年若き信長が次男、織田信雄(のぶかつ)に目をつけられたのである。 諸国に散っていた伊賀忍はことごとく参集し、日夜ほうぼうを駆け巡っては、針の落ちる音すら聞き漏らすまいと、総力をあげて織田勢力の動向をうかがっていた。 その渦中に東雲(しののめ)の姿もあった。    ◆  ◆  ◆ 草木も眠る(うし)(こく)煌々(こうこう)とした月が照らす十六夜のこと。 彼が人生の選択を間違えたのは、まさにこの時であった。 命じられた諜報任務を終え、伊賀の領地に帰還した東雲は、突如十三人の男に取り囲まれた。――前触れなどなかった。しかしその光景を目のあたりにした瞬間、東雲はすべてを悟った。 彼は里に「いらぬ者」として切り捨てられたのである。 なぜ、などと御託(ごたく)を並べている暇はなかった。 東雲は即座に忍刀を抜き放つと、夜陰に沈む山林へ脱兎のごとく跳びこんだ。 間髪入れず、頭上から無慈悲な矢の雨が降り注ぐ。 一本が背を穿ったが、東雲は足を緩めなかった。 立ちはだかる一人を斬り捨て、さらに林の奥へと無我夢中で駆ける。 おそらくは、強大すぎる織田勢力との戦を目前にして、離反者でも出たのだろう。忍といえど、しょせんは人である。恐怖が伝播(でんぱ)し、(ほころ)びが大きくなってしまう前に、疑わしき芽はすべて一掃してしまえ、と里の上層部が判断したに違いなかった。 静まり返った杉林に、激しい剣戟(けんげき)の音が響く。 東雲はもともと忍者としては下の下、捨て石同然の処遇である。 彼の生国(しょうこく)は伊賀ではなく、伊賀国よりいくらか西の小さな農村であった。幼い時分にその村が戦で焼け、孤児となっていたところを、里の上忍に無理やり連れてこられたのだ。 伊賀の里では、そうやって拾ってきた子供に忍術を仕込み、手駒を増やすといったことがよく行われる。 しかしながら、生来伊賀忍者として育てられてきた者とは違い、教えられる忍術はうわべだけの生兵法(なまびょうほう)。捨て駒として働ける最低限の知識と技術のみである。 それはまさしく今のような有事の際、簡単に始末できるようにしておくためであった。 同じ伊賀忍者同士 地の利もきかず、多勢に無勢のこの状況で、忍としても半端者の彼がどうして逃げられようか。 もはや死はまぬがれない。 あまたの死線をくぐり抜けてきた東雲(しののめ)は、この場に生へとつながる望みが露ほども残っていないことを、ひしひしと肌で感じていた。 (冗談じゃねぇッ) 里に仕えて十数年、いつかこうなるのではないかと思っていた。 東雲は、自分が里にとって(ちり)ほどの価値しかないことを、とっくのとうに理解していた。 それでもこの土地に縛られ続けたのは、そうする以外に生きるすべがなかったからだ。裏切れば殺される。忍務をしくじっても殺される。生きるためには、里から課される無理難題を命がけでこなしていくしかなかった。 しかしその辛苦も、今日この時をもって、泡となって消えるらしかった……。 (ちくしょうッ、ふざっけんな! 死んでたまるか!!) 希望はすでにことごとく握りつぶされ、勝算などどこにもありはしない。しかしだからといって、このまま里の思惑通りやすやすと殺されてなるものか。 東雲は振り向きざまに追手の腹部を斬り裂いた。生への執念だけが、彼に残された最後の砦であった。 白い月が()()えと照らすその下で、血にまみれ、毒に侵され、なかば獣のような風体で東雲は抗い続けた。それは文字通り身を削る死闘であった。 もはや正常な思考などは存在しない。 忍びの術も、人間としての矜持もかなぐり捨てたその姿は、まるで生存欲という狂気が四肢を得たようであった。 暗夜の風吹く笠取山(かさとりやま)に、いくつもの骸の道ができた。 そしてついに、何人目かの喉笛をつらぬいた時、その場に立っている生者は東雲だけになっていた。 十三人すべて殺したのか、はたまたこれ以上手をかけずとも助からぬと判断し、引き上げていったのか……。いずれにせよ、逃げ出すには千載一遇の好機である。 伊賀国の境は目と鼻の先にまで迫っていた。 (死んで、たまるか……、死んで……ッ) しかし、現実は無情である。 東雲は、もはやそこから一歩も動くことすらできずに倒れ伏した。 とめどなく流れ出る血で濡れそぼった衣が、ぐじゅりと不快な音をあげ、咳きこむ口からも生ぬるいものが飛び出した。痛みはすでになく、もはや呼吸すらままならない。片方の瞳はつぶれ、暗く狭まった視界からじわじわと光が奪われていく。 いよいよ終わりが近づいていた。 かすむ視線の先には、一足先に物言わぬ(しかばね)となった同朋(どうほう)が一人、土の上に転がっている。もうすぐ自分もあのように、無価値な肉袋となるだろう。 死の淵に横たわりながら、東雲は唐突に、自分の中心がぽっかりと空洞になってしまったような喪失感に襲われた。 (なんだったんだ……なんだったんだ、俺の人生は……!) 生きるために身を削り、目的もなくただ生きて――最期はなんの意味もなく死んでいく。 なんて空虚な一生だろうか……。 (冗談じゃ、ねえ……ッ) ぎしり、と奥歯が鳴った。東雲は鉛のように重い腕を強引に伸ばし、かたわらの巨木をつかんだ。――どこにそんな力が残っていたというのか。この期に及んで、彼はまだ生にしがみつこうとした。 根の部分が二股になっている杉の幹へ、ほぼ死肉となり果てた身体を引き上げる。 (死んで、たまるか……ッ!) いやしくも、事切れるその瞬間まで、東雲は一心不乱に命の糸を離すまいとした。 しかしそんな無様な抵抗も虚しく、彼の意識は深い霧の底へ沈んでいったのである。
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