序章 東から来た男

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序章 東から来た男

人間万事、塞翁(さいおう)が馬。人生は選択の連続である。 一匹の(ちょう)のはばたきが遠く離れた土地で嵐を巻き起こす。 そんなたとえにもあるように、なにげない振る舞いが後にとんでもない事態を招くということが、世の中にはままあるのだ。 ――気がついた時には全裸だった。 全裸で、見知らぬ場所に立っていた。 その男、名を東雲(しののめ)。伊賀が隠れ里の若き忍である。 戦国という時世において、一寸先すらおぼつかない波乱曲折(はらんきょくせつ)たる日々を、ただひたすら生き抜いてきた。そんな彼ですら、今の状況には唖然と立ちつくすほかない。 「なにがどうなっとるんじゃ……」 困惑に揺れるこの台詞も、目が覚めてからすでに三度目。呟きに応えてくれる者はいない。 一体どのような選択を辿れば、ここまで奇天烈(きてれつ)な事態に陥るというのか……。 彼は十畳ほどの狭い部屋に立っていた。よどんだカビ臭い空気。風はなく、やや湿った土の臭いが鼻をふさぐ。――地下だろうか。 天井や壁には赤黒い石材が隙間なく並んでいる。古びた重厚な木戸のとなりには、壁に固定された鉄製の油皿があり、やけに明々とした炎が灯っていた。 部屋の片隅にはいくつかの麻袋と、不気味な植物が数株置かれている。 まるで見たことのない奇妙な草だ。葉や茎にいたるまで透きとおるように白く、てっぺんから細くひしゃげた花弁がだらりと垂れさがっている。見上げるほど高い位置で五枚の花弁が揺れるさまは、さながら痩せこけた病人の手のようだ。 気がついた時にはここにいた。見たこともないこの場所に、丸腰で立っていた。手裏剣どころか、ふんどしすらない。 ――あってはならぬことだ。まるで忍の禁戒を端から端まで棚卸しして、盆に並べたようなありさまである。 しかし、上記の事柄だけならば、忍である彼がここまで途方に暮れることはなかっただろう。 「なにがどうなってんだ……!」 弱り目に祟り目とはこのことか。 彼の足もとに転がっているものの存在が、事態をさらにややこしくしていた。 「――鬼じゃ……」 鬼だ。鬼がいたのだ。 赤ら顔の高く突き出した額から、牛のようにずんぐりとした角が二本、ぬっと飛び出している。まごうことなく鬼である。 その鬼が、彼の足もとで喉から血を流しながら死んでいたのだ。 「死んでやがる……、いや、違う……死んだのは――俺か?」 どうやら、ここは地獄らしかった。
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