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2.~バタフライ・エフェクト~ 後編
「!!アキヒロ!」
唐突に親友のことを思い出し、ガレキと化した店の外に飛び出した。
だが、そこには地獄が広がっていた。
壊された建物の数々。手足が千切れ動かなくなった人々。
血と煙、亡骸とガレキの街だったナニカ。
呆然とするしかなかった。
脳が眼前の出来事を拒絶している。
それを無意識にヒヅルは感じ取った。
一歩足を踏み出したその時、そこに『転がっているモノ』を踏んだ。
僕と同じ制服、一緒の教科書。
ネームプレートは"アキヒロ・ナガヤ"の文字。
折れた肋骨数本が無造作に肉を突き破り、彼の足がついていた場所は、ただ地面があるのみ。
唯一顔だけは、いつものアキヒロの顔だ。
目を見開いた表情のまま、永遠に時間が止まっている。
その目を見て、初めて現実に引き戻された。
本来こういう時、悲しみがこみ上げるのだろう。
ヒヅルは悲しみ以上に
-僕が会計をしていなかったら-
-数秒早く店を出ていたら-
-僕が授業を真面目に聞いていたら-
「……バタフライ・エフェクト、か」
僕も死んでいたかもしれない。
いや、アキヒロも死ななかったかもしれない。
そんなことが、先に頭によぎった。
そこまで考えて、一気に現実に感情が追いつく。
数瞬前まで生きていた友の死に、涙が溢れてくる。
膝から崩れ落ちる。
嗚咽が止まらないが、その嗚咽もけたたましいサイレンの音と、遠くで鳴り響く爆撃の音にかき消されてしまう。
そうだ、家が。母と父、妹は無事なのか。
脳髄が全身に走る痛みを拒否する中、必死に家まで自転車で急ぐ。
10分も漕いだ頃には、瓦の吹き飛んだ自宅に着いていた。
「父さん!母さん!セイラ!」
父を母を、妹を呼びながら靴も脱がずに家に飛び込む。
「っ、お兄ちゃん!」
赤黒いボブカットをぐしゃぐしゃにしながら駆け寄る少女。
ヒヅルの姿を見るや、妹が駆けて来た。
妹を強く抱きしめ、生きていることを実感する。
「ヒヅル!無事だったのね!
母さんもセイラも怪我はしたけど無事よ」
父の頭からは血が垂れ、周囲には家財が散らばり、母とセイラの腕には食器のガラス片が刺さり流血していた。
その様子だけで、家族に何が合ったのかがありありと分かる。
痛みに耐えながら、母が微かに言う。
「公園広場地下のシェルターに向かうのよ。
母さんが小さかった頃にできたものだから、まだ機能しているはずよ」
父がセイラを、僕が母を抱きかかえながら川沿いを一路目指した。
道中から見えるいつもの街が、焦土と化していた。
高台に見える小学校の白壁は黒く焼け、町民は動かぬまま塀にぶら下がっている。
これが現実だって言うのなら、神話の女神様はなんて残酷だ。
「戦争だ」
父が重く、曇った声で言葉を発した。
「戦争がまた始まったんだ。また多くの人が死ぬ。聞こえるだろ、ヒヅル。
爆撃機の音が俺たちを殺しに来る」
耳を澄ます。飛行音そして爆撃が悪魔の口笛のように低く不吉に鳴り響く。
そして次に聞こえたのは母の大きな一言だった。
「ヒヅル!逃げて!!!」
母の手が、僕を川へ突き落とした。
母さんの手は……こんなに小さかったっけ?
そんなことが脳裏によぎりながら、僕は冷たい春先の水底まで沈んでいった。
小さい頃に川で溺れたときの記憶が蘇る。
それは、肺に水が満ちて意識が遠のいた時のこと。
初めて死ぬと思った、あの時のこと。
そこに母の手が伸びてきて、必死にその手を掴んで引っ張り上げられたっけ。
そんな走馬灯を見ながら……走馬灯?いや、違う。
今現実に、母の手が僕に伸びてきた。
必死に掴むがそれに力はなく、引っ張り上げられることもなかった。
小さく感じる母の手をつかんだまま、水面へと上がる。
一気に肺に、血管に、脳に酸素が行き渡る。
「母さん!しっかりして!!!」
右手に握った手の先に目をやる。しかし。
手首から先には、裂けた骨とそうめんのように裂けた筋肉繊維が、こびりつくだけだった。
急いで家族がいた土手へと、ゆっくりと近づいていく。
そこには焦げた家族の衣服。
賢く誰よりも優しかった父の脳漿。
母は……僕の手の中に残った腕が、全てだった。
焼けとろけた腸も、さっきまで声を発していた下あごも、誰のものかはもうわからない。
そしてヒヅルが最も大事に想う家族が、そこにはいなかった。
「セイラ……」
噴煙の周囲を見渡しながら、か細い声でつぶやく。
そこに最愛の者の姿が、影一つも見えないのだ。
なにかに取り憑かれるように、ふらふらと歩きながら一縷の望みにかけて、必死に目を凝らす。
だが、妹は案外すぐに見つけられた。
それも最悪の形で。
父の死体から少し離れた所に、"小さな左腕"だけが襤褸屑のように落ちていた。
小さく握りしめられた手の中には、幼い頃に妹にあげた玩具の指輪があった。
あぁ、セイラは僕の贈りものを、ずっとずっと大切にしていてくれたんだな。
心を支配する激しい痛みに、痛哭するしかできない。
「父さん、母さん、セイラ……」
母の腕、妹の左腕をかつての父の横にそっと、優しく置いた。
家族が、そこに揃った。
それだけがせめての救いと思うしかなかった。
周囲はファミレスで嗅いだあの嫌なにおいと、鉄臭さが充満して鼻腔にこびりついてくる。
-家に帰るのが1秒でも遅かったら-
-僕がセイラを背負っていたら-
そう思うが、蝶のひと羽ばたきはもう変えることはできない。
ひと羽ばたきの差で友が、家族が無惨にも死んだ。
これからも、笑顔で過ごせると思った日常と共に失われた。
痛みと悲しみで涙が止まらない。
どんな叫びも悪魔の唸り声も、もはやヒヅルの慟哭をかき消すことはできなかった。
膝に力が入らなくなってくる。
今や姿勢を保持しておくこともできない。
そして彼の意識は、深い深い闇に落ちていくのだった。
新世暦111年 3月8日
ブラダガム帝国が九重共和国 沿岸地区と短期的紛争を開始。
後に「東桜の春」と呼ばれるこの紛争により世界はまた終わりの見えない地獄が始まろうとしているのであった。
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