潮風をきって走れ

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5  あの年、父が死んでからは―― 遠征から戻った父が、「おう、帰ったぞ!」と言って、大きくドアを開いて、わたしが全力疾走で階段をかけおりて、大きなその胸に飛び込んでいく―― あの、私にとってはあまりにあたりまえだった、「わたしの家」の毎日の絵は―― もう二度と、そこで見ることはできなくなってしまった。母はあの事故以来、ふさぎこんで、部屋でひとりで泣いている時間が多かった。  そしてわたしは―― 誰かにやれと、言われたわけではないのだけれど――  わたしはひとりで走りはじめた。  最初は家の近くの山道を、ひとりでこっそり、たよりない足取りで、ひとりでバタバタ駆け抜けて。そのあと少しは走れるようになってから、近くの浜まで走って走って駆け下りた。朝も夜も。走れる時間は、とにかく走った。  走ることで。走ることで。  わたしの小さな心臓を、ドクドク激しく動かすことで。わたしは何かに、なんとか今もつながっている。それでなんとか生きることができている。なぜだか、そんな気がしていたからだ。  ドクドク脈打つわたしの心臓。そこには確かに、父が残した熱い何かが、今でも消えずに流れているのだと。子供心に、いつでもそれを強く感じた。走るんだ。走るんだ。走るんだ。こうして走って、何もかも忘れて、ひたすら走り続けているときにだけ―― わたしは父と―― あの、いまでは顔もよく思い出せない、優しかったあの人と―― まだ今もどこかでつながっていられるのだと。そう思えてならなかった。  誰かに言われたわけではなくて。わたし自身の、心が教えた。心がいつも叫んでた。  走れ。走れ。走るんだ、と。  だからわたしは走り続けた。雨の日にも。風の強い日にも。雪のちらつく冬の日にも。
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