潮風をきって走れ

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「いたたたたた…! ちょ、ちょっとまった! 腕! いたたたた!」  彼女を支えて何歩か斜面を登ったところで。新田みのりが、顔をしかめて大きくうめいた。 「そっちの腕。まさか―― 折れてる、とかですか…?」 「…かもしれない。骨折とか、経験ないから、わかんない」 「じゃ、なるだけゆっくり慎重に行きましょう。ゆっくりです。一歩、一歩、ほら。こちら側にのぼるルートは、そんな急じゃありませんから。ほら。一歩、ここへ。次はここに、左足をつけましょう。」  時間はずいぶんかかったけれど――   自分でも、まるで夢の中をがむしゃらに泳いでるみたいで――  何がどうだか、ごちゃごちゃ混ざってわからなくなっていたけれど――  わたしと彼女は、それでもどうにか、最初に彼女が滑り落ちた、その最初の崩れやすい土の斜面の上まで―― なんとか二人で、無事にのぼりついて。二人でそこに、なかば放心したみたいに座りこむ。  疲れた。とても。彼女を支えて登るのは、かなり重さもキツかったし。ひどく汗をかいていた。でも、走ることをやめたことで―― さっきまであれだけ激しく打っていた心臓が、今はもう、だいぶ静かになっている。  これまで競技中にリタイアした経験はゼロだったから―― 途中で走り止めるっていうこの感覚に、なんだかうまくなじめない。そして走っているときには気にもならなかったけど―― 今この、日の当たらない山の中の森は、なんだか湿って肌寒かった。 「ぜんぜんわかんないよ、外津」 「…なにがですか?」 「なにがって。レースだよ。トライアスロン。せっかく1位を狙えたのに。あんた自分でチャンスを棒にふっちゃったよ。まあ、助けてもらって、それをとやく言うのも、あれなのかなとは、思うんだけどさ」  わたしと背中あわせに地面にすわって。新田みのりは、なんだかしみじみと、息を吐きながらそう言った。彼女の背中の温もりが、わたしの背中に、少しかすかに伝わってくる。 「そうですね。自分でも、ちょっぴり色々、わからなくなりましたけど」  わたしは言った。どこか遠くの、森の木々の間にむかって。自分の心を整理しながら。 「でも。いいんです。だって、わたしの目標は―― あくまで、あなたに―― 新田先輩に、勝ちたい。それだけ。それが目標でしたから」 「だったら、なおさらじゃない? 勝つチャンス、今そこにあったでしょう」 「でも。先輩がケガしてリアイアしたその時点で。わたしがそのあと、勝ったとしても。ほんとに勝ったことには、ならない気がしました。そして―― それに―― そのあとのことは。なんだか自分でも、よくわからないです。なんだかアタマが、真っ白になって。ごめんなさい。かえって、腕とか、痛かったかもしれないですね。わたしが最初に、走って先生に伝えに行っていた方が――」 「ん… いや。まあ、ここまで支えて引き上げてくれたこと自体は、もちろん感謝はしてるよ。そこのところは、何もあんたは間違ってない。そこは素直にお礼を言うよ」 「いえ。もっと上手に、痛くないように支えられたら。もっとほんとは良かったんですけど――」  そう言って、わたしが見上げた森の梢には。ようやく朝の―― 夜明けの光が。ゆっくり静かに、ふりこみはじめている。この深い山の中にも―― ようやく朝が訪れようとしている。雨はもう降っていない。いつのまにか止んだみたいだ。朝霧が、しずかに森のあちこちをただよっている。しんとしたその木々の世界で。わたしは深い羊歯のにおいにかこまれて―― わたしとわたしのライバルは―― その朝の静けさの中。無言で背中をあわせていた。 「でも。あの―― とりあえず、これを――」  わたしはおずおずと、差し出す。さっきから、ひとりでこっそり気になっていた―― 土の上に投げ出されていた―― 白地に2色のランニングシューズ。
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