2.似たもの同士

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2.似たもの同士

「水、飲むか?」  頬にあてられた冷たい感触に目をあけた琉威は、ぼうっとする意識の中で記憶を辿っていた。  自分が凭れ掛かる肩は誰のものだろう?  この、支えてくれる腕は? (…もしかして……) 「う、わ! …飯嶋、部長?!」 「やっと目が覚めたか」  ふぅっと息を吐いた飯嶋は、手に持ったペットボトルの蓋を開けた。 「とりあえず、水。ホラ」 「あ、ハイ…。ありがとう…ございます」  飯嶋から水の入ったペットボトルをもらって口を付ける。次第に意識がはっきりとしてきて、琉威はそこで初めて自分がどこかのベンチに座っているのだと気がついた。 「家はどこだ? 送ってやるから」 「…すみません、ご迷惑をお掛けしました…。もう、ホントに大丈夫です」  試しに一度、立ち上がってみる。先ほどまでのふらつきはもう無くなっていた。  飯嶋は、ベンチに座ったまま俯きながら頭を掻くと、 「あーっもう! 別に何もしねぇから、さっさと言え! 住所!」 そう言って、飯嶋もベンチから立ち上がった。 (何もしないって…何を??)  そこまで考えて、琉威は自分のセクシャリティな面が知れてしまったのだと気がついた。  しかし、同時にあのバーに居た飯嶋さえも、自身と同じ趣向なのだと知る。 「いえ…! そんなつもりで断ったんじゃなくて…!」 (なんで同じ部署の上司と部下でカミングアウトし合ってんの?!)  混乱する頭の中で、琉威はいったん落ち着こうと俯いて息をつく。大きく息を吸い込むと、顔を上げた。 「上司に送っていただくなんてことは、できませんから!」 「あー、そういう奴もいるいる! 津田とかな!」 (オレが送ったわけじゃないけど)  とまでは言わないで、琉威の警戒を解くべくして飯嶋は部下の名前を出してみる。が、 「えっ、つ、津田さん…って。やっぱり津田さんと部長はそういう仲…」 あらぬ方向へと話がズレてしまった。琉威はまだ酔いが醒めていないのかもしれない。 「違うってば…。ったく、何なんだよお前は…」  どうやら課長と部長はそういう仲ではないことが本人の口から証明される。琉威は妄想が妄想で終わってしまったことを残念に思いながらも、心のどこかで安堵していた。 (職場でそういうのは…まぁ、こっちも困るってもんだし? それに、イケメンは目の保養っていうか?) 「ホラもう、十二時まわるぞ。寝る時間がなくなる。……住所!」  ここまで言えば琉威ももう大丈夫だと思うだろうに、飯嶋はまだ諦めていなかったらしい。  何もしないなんて条件を言われた手前、琉威はこれ以上断れなくて、上司へと住所を伝える。  飯嶋がタクシーをとめて先に乗ると、港区までと運転手へと伝えた。 「部長はどちらに?」  そう彼の住まいを琉威が聞いても、飯嶋は近くというだけで何も答えなかった。  もともとバーから近かったため、十分も走れば琉威の住むマンションへと着いた。お礼を言うと、飯嶋は「また明日」と片手をあげた。ドアは閉まり、タクシーは大通りの中へと消えていった。  時刻は既に午前零時を回っている。明日のことを考えると、新入社員が遅刻するわけにはいかない。琉威は小走りでマンションへと駆け込んでいく。  春とはいえまだ肌寒い夜風の中、琉威の心は少しばかり踊り出したかのような感覚に囚われる。  また、明日が始まろうとしていた。 「おはよーございまーす」  琉威はいつもと同じ時間どおりに職場へと到着する。 「あ、矢野君。おはよう」  津田がニコリと笑って挨拶を返した。この津田は、朝はいつも早い時間から到着しているようだ。 「いつも早いんですね、津田さんて」  何気ない会話だったはずだが、そこに飯嶋が割り入ってきた。 「ハイハイ、時差出勤ねぇ」 「ちょっ…! 部長!」  何やら文句が言いたげな津田だったが、琉威にはよく分からなかった。 (通勤ラッシュを回避したいのかな?)  やっぱりこの二人の会話には何か秘密があるような気がしてならない。琉威は取り残された気分になって、ちょっと気持ちが沈んでしまった。昨日はあんなに近い距離感で飯嶋と話せていたのに、この二人と比べたら天と地の差を感じてならなかった。  琉威は二人の会話から外れようと、一歩下がって距離を置いてみる。  でも、飯嶋のほうがまた一歩、琉威へと近づいてきた。耳元で小さく囁く。 「昨日は、ちゃんと寝られた?」 「……ッハイ!」 「なら、よかった」  いつものようにニコッと笑って、飯嶋は自分のデスクへと戻っていく。とても愛嬌がある笑顔だ。でも、それは少々軽薄そうにもとれて、イマイチ信じ難い印象を残してしまう。  その姿は、昨日バーでみた彼とはどこか違う雰囲気を纏っているようだと、琉威にはそう思えてならなかった。  よく分からないながらも本日の業務をなんとか終えた琉威は、やれやれと肩をもみつつ帰り支度を始めた。今日は気晴らしに書店にでも寄ってみようかと計画を練る。  するとそこへ、飯嶋が現れた。 「矢野、ちょっといい?」  皆が帰る最中、飯嶋は休憩室を指しながら琉威を呼び止めた。琉威は呼ばれるがままに、休憩室へと入っていく飯嶋へと続く。  自販機が置いてあるだけの、中途半端な大きさの部屋の中央には、カウンターのような高めのテーブルが幾つか設えられている。飯嶋はそこで立ち止まると、手招きをして琉威を同じテーブルへと呼んだ。 「お前さ、今日もあそこ、行くのか?」  あそことは、昨日のバーのことだろう。 「いえ、今日は書店に寄ろうかなって…」 「ふぅん。なら、いーんだけど」  それでも何か言いたげに、飯嶋は買った缶コーヒーを琉威へと渡した。 「あ、…どうも、です」  奢ってもらった缶コーヒーは手に持つには熱いほどだった。琉威はしばらくそれを両手で包み込むようにして指先の暖を取る。 「あのさ…」  言いにくそうにして、飯嶋はやっとのことで話を切り出した。 「ああいうバーはお前、あんまり行ったことないんだろ?」 「え、何で知って…あ、もしかして」  ふとママの顔が浮かんで切り出したものの、 「ママからは何も聞いてない。あの人、他人のことは何も言わない人だから」 予想ができたのか、飯嶋は即座に琉威の誤解を解いた。 (へえ、そうなんだ。じゃあオレが言った愚痴も、飯嶋部長の耳には入ってはいないのかも)  琉威は心の中で思わず安堵する。しかし、その安堵も次の言葉で打ち消された。 「今度あんな飲み方したら、お前、知らない男にヤられるからな」 「………っ!?」  この上司はまたとんでもないことを言ってくれるものだ。  琉威は立ちくらみを起こしそうになって、立ちながらも思わずテーブルへと肘をついた。  しかし、昨日の醜態を見れば、飯嶋にだってそう言われても仕方のないことではあった。琉威はただただ、昨日のことを反省するしかない。  そう、たまたま相手がこの飯嶋だったから良かったのだ。もし会ったばかりの赤の他人だったならば…。  そこまで考えて、琉威は自分のとった行動の浅はかさにようやく気がついた。ひよっとしたら、顔すらも青ざめていたかもしれない。 「…まぁ、反省はしてるようだから、大丈夫だろうとは思うけど…」  飯嶋は缶コーヒーを一口飲むと、まだ中に残っているだろう缶をトンと音をたててテーブルへと置いた。 「いいか? バーへ行きたいならママのとこだけにしておけ。あのママは人が良いから、万一、酔い潰れたりしても放り出すようなことはしない」  そこまで飯嶋は一気に話す。続けて、 「あと、今度行く時はオレを誘えよ。いいか? 絶・対・に! だからな!」 と、ひどく強調しながらも、話の終わりに残りの缶コーヒーを飲み干してそのままゴミ箱へと入れた。  まるで職権乱用のごとく上から目線で話を捲し立てると、飯嶋は全てを言い終わったのか休憩室から出て行ってしまった。  もしかしたら、ちょっと怒っていたのかもしれないと、琉威は少しだけ感じ取る。  でも、琉威のことをひどく心配しているということだけは、胸の内へとはっきりと伝わってきた。  結局、書店へ出向いたはいいものの、経理の仕事の参考になる書物は膨大にありすぎて、勉強するには何から手をつければ良いのかさえ全くわからなかった。何の収穫もないままに琉威は家路へと辿り着いた。  明日、課長の津田に聞いてみようかと考える。それが手っ取り早い手段だったが、琉威は思い立って飯嶋に相談してみようと考えた。  スマホを手に取ると、配属時に登録しただけだった飯嶋のアカウントを探す。そこへ、仕事の参考書はどれを使ったら良いか教えて欲しい旨を打ち込んだ。  仕事のことだから、別に部下から上司へ連絡しても何の問題もないはずだ。琉威は自分に言い聞かせるようにして返事を待った。  しばらくして、飯嶋から返信がくる。 『明日、バーで待ってろ』 (………)  プライベートな返事が返ってきた。  たぶん、バーで会った時に教えてくれるという意味だろうと琉威は結論づける。  とりあえず、明日は飯嶋とバーで待ち合わせすることになったようだ。 (何これ…変なの)  そう思いつつも、琉威は心のどこかでその約束を心待ちにしている自分に気がついた。  知らず口元が緩んでいることには、まだ琉威すらも気づかないままに。  次の日の夜。 「ハイ、コレ」  バーで待っていた琉威へと渡されたものは、近隣書店のロゴが入った手提げの紙袋だった。飯嶋は、書店に立ち寄ってからこちらへと来たようだ。  中には『目指せ!日商簿記3級』や、『絶対受かる!日商簿記3級』など、検定試験のテキストと問題集が入っていた。  やっぱりバーで手渡しされるようなものではない気がした。会社で良かったのでは…と思いつつも、このバーにまた来られたことは嬉しくて琉威はそんな考えを放棄する。 「試験を受けた方が早い。3級なら次の試験で受かるだろうし」 「次って、いつですか?」 「六月。すぐ申込みすればまだ間に合うはずだ」  六月なんて、あと一ヶ月ちょっとしか期間がない。琉威は流石にムリだとゴネてみた。けれど飯嶋に押し切られて、とりあえず三級を受験する方向へと決まってしまう。 「マジでか…」  一ヶ月でこのテキストと問題集をこなさなければならない。  頭を抱える琉威へと、飯嶋は片手でその頭をくしゃりとかきまぜた。 「大丈夫だって。わかんないとこはオレに聞いてくれていいから。なんなら勉強中にも通話して教えてやるよ」  少し楽しそうにククッと笑って、飯嶋は美味しそうにカクテルを飲む。そんな彼の姿を見ていたら、なぜか琉威もやる気が湧いてきた。 「はい…。じゃあ、頑張ってみます…」  珍しく素直に了承した琉威に、飯嶋は少しだけ驚いた顔をしたが、最後には『頑張れよ』と小さく笑った。  久々の楽しいひと時ではあったが、酒は控えめにして琉威はそろそろ帰ろうかと時計を確認する。  そんな時、ママがちょっと面白そうに話をし始めた。 「ほんと、あんたたちって似たもの同士よねぇ」 (え…? オレと部長が、似てるって?)  琉威は思わず『どこが?!』聞きかえしていた。 「どこってわけじゃないけど…ほら、二人とも何しにここに来るわけぇ?」  琉威がここに来ている理由は、心の拠り所を作りたかったからだ。 (じゃあ、飯嶋部長も…?)  琉威には飯嶋がそんな理由でここに来ているとは到底思えなかった。  飯嶋はいつも、どんな時でも常に明るい。仕事中は静かだが、それ以外はいつもムードメーカー的な存在といえた。とてもじゃないが、心の拠り所に困っているようにはみえない。 (どこが似てるって言うんだか…)  やっぱり理解できなくて、琉威は仲良く話す二人を側で眺める。ひとり疎外感を感じつつも、受け取った書籍の入った紙袋を膝へと乗せて、琉威は大事そうに紙袋を抱え込んだ。
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