3.バーで待つ

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3.バーで待つ

 仕事は定時に上がらせてもらっていたから、琉威は寄り道は極力しないで帰宅し、できる限りの時間を使って参考書や問題集と向き合っていた。  いざ勉強に手をつけ始めると、簿記は意外と楽しいものだとわかる。仕事でも身近な分野だからか、琉威は次第に興味が湧き始めていた。 「うーん。でもコレって、この考え方で合ってるのかなぁ」  問題を機械的に解くのは簡単だったが、理解しているのかといえば謎といえた。 (…聞いてみようかな?)  でもいざ聞こうとすると、こんなことのために質問してもいいものだろうかなどと迷いも生まれる。最近は勉強のためにバーにも顔を出しておらず、琉威は少し淋しい気もしていた。ついついスマホを手に取ってしまう。  電話をかけようか、個人メッセージで聞いてみようかと、うだうだと悩んでいた。  すると、思いがけずスマホが鳴りだす。  なんと飯嶋からだった。琉威は慌てて通話ボタンを押した。 『ど? 進んでるー?』  軽いノリの声が耳に届くと、琉威は少々、拍子抜かれてしまう。ちょっと緊張していた自分が恥ずかしくなってしまいそうだった。 「はい、とりあえず…。問題は解けるんですが、内容というか、意味がわからなくて…」  "引当金"や、"累計額"といった勘定科目のことを聞いてみる。実体がないせいか内容がいまいち掴めなかった。 『あー、それね。その辺は追々わかってくるから大丈夫。気にしなくていいよ』  まだわからなくてもいいことだと分かり、次の試験に理解度は影響しないようだ。琉威はとりあえずホッとした。 「あ、あとは…」  他はだいたい分かっていることも、続けて質問をしてみた。淋しかった気持ちを埋めるべく、どうにか話を続けていたかったのかもしれない。  ある程度の問題を聞いて、名残惜しくも通話を終えた。琉威は自身の胸の辺りに、憶えのある熱を感じた。 (はぁ…)  心臓がうるさく鳴動し始める。 (やっぱりオレは、あの人のことを…)  飯嶋のことを好きになっている自分を自覚した。認めざるを得ないほどに、琉威の心臓はうるさく打ち続ける。 (相手は上司だぞ…) 「…これから、どうすれば良いんだろ…」  キュウと縮まる心臓部へと手をやって、琉威はそのままベッドへと寝転んで天井を見上げた。  あっという間に、試験の日がやってきた。  民間試験の三級といえど、琉威にとっては久々の試験だった。  それに今回は、結果を飯嶋に報告するというミッションまである。どうしても滑るわけにはいかなかった。  試験はスムーズに終わって、速報では無事、合格ラインに達したようだった。あとはミスさえなければ合格も同然だ。  飯嶋にはすぐにメッセージで連絡を入れた。飯嶋からの返事は『八時にバーで』とだけあった。  琉威はそれだけで舞い上がっている自分に気がついて、 (あぁ、オレってもうダメかも…) と、泥沼に嵌っていく自分が可哀想にも思えた。  それくらい、飯嶋が相手だということが困難な道に思えたのだった。  メッセージの通り、琉威は八時きっかりにはバーで待っていた。 「あらぁ、友と待ち合わせかしら?」  酒も注文しないでカウンターの端で待っていたら、ママにからかわれてしまった。  たぶんこのママは、琉威の片思いをもう既に察知していることだろう。琉威は耳まで紅くしながらも、気づかぬフリをして飯嶋を待っていた。  やがてドアが開くと、飯嶋が満面の笑みで琉威へと駆け寄る。勢い余ったようにして、琉威へと抱きついた。 「矢野、おめでとう!」 「ちょっ…と! まだ早いですって!」 「そうそう、まだまだ早いわよぉ〜」  ママだけは面白そうにして、また琉威を揶揄ってくる。 「違いますってママさん! あぁもう、まだ合格してるかどうかもわからないじゃないですかぁ!」  よく頑張ったと頭を撫でまわす飯嶋を牽制するようにして、琉威は叫んだ。 「ハイハイ、わかってるわよー。今日は友の奢りで前祝いよね!」  その言葉通りに、その日は飯嶋が酒をご馳走してくれたのだった。  会社での飯嶋は、バーでみせるほどの無邪気さは全く感じられなかった。  有能な営業マンタイプ。仕事の判断は冷静沈着。そして、的確に対応。  しかし経理というお硬いと言われる仕事をしている割には、飯嶋の場合はちょっと外見が軽薄そうにもとれた。イケメン高身長と相まって、遊び人ぽく見えたりもしてしまうのだ。  部長という役職に居ながらも、気さくな性格故かいつも女性社員から気軽に声をかけられていた。 「ほんと、なんで飯嶋部長って、経理部配属なんでしょうね。どちらかっていうと営業マンのほうが、すごく似合ってるような気がするんですけど…」  そんな話を琉威は課長の津田にしたことがあった。 すると津田からは、飯嶋がもともと営業部の人間で、急遽こちらの部署を受け持つことになった経緯を話してくれたのだった。  どうも飯嶋を経理部に転属させたのは、飯嶋とは同僚の菅野専務なんだとか。  どうしてあんなにすごい人を、急に経理部へと移動なんかさせるんだと、よく知らないならがらも琉威は怒りさえ憶えてしまう。もしかすると同僚故に、嫉妬や蹴落とし合い的な事情でもあるのだろうか。琉威は一方的な考えではあったものの、菅野に対して怪しげに勘ぐってしまっていた。  胸にそんな苛立ちを残しながらも、琉威は久しぶりにバーのママに話を聞いてもらいたくなって、店へとフラリと立ち寄ったのだった。 「あら、いらっしゃい。琉威君」  ママは琉威のことを『琉威君』と呼ぶようになった。名前を伝えた時に、かわいい名前だからそう呼びたいと言ってくれたのがきっかけだ。 「こんばんはママさん」 (あ、そういえば今日は飯嶋部長にココへ来ることを伝えてなかった)  ふと、バーへ行く時は飯嶋に言うようにと言われたことを思い出した。  あれから琉威は律儀に連絡を入れていたが、今日は思いつきで立ち寄ったためにすっかり忘れてしまっていた。 (まぁ、今日は部長も津田さんも忙しそうだったし、寄り道してるなんて連絡したら逆に迷惑かけちゃうかも…)  気をつけながら軽く飲んで帰ろうと思い、指定席となったカウンター席の端へと座り込んだ。  しばらくすると、知らない男性から声がかかる。 「ねー、君。ひとり?」 (え?)  ママが他の客を対応している最中に、その知らない男性は琉威へと声をかけながらも、強引にも隣の席を陣取ってきた。 「あ…ハイ。でも、もうすぐ来る…かも?」  適当なことを言って琉威は男をスルーしようとした。 「じゃー、来るまででいいからさ! 一緒に飲もうよ」  ね? と付け足されて、琉威は断る理由が見つからずに、なし崩しのまま相手の話を聞くことになった。グラスに注がれた酒を少しまた少しと、暇つぶしのように飲み続けた。 「なに彼氏、まだ来ないね。俺とどっか行っちゃおっかぁ?」  何やら空気が怪しくなってきたのには琉威も気づいていた。飯嶋とは全く違うタイプの軽い男だった。ここで彼氏などいないなんて話でもしたら、それこそ自分から誘っているようなものだろう。  琉威はできるだけ男に興味がない素振りでいるように努めた。反して男は、親しげにボディタッチをし始める。  琉威は、距離を取ろうにもカウンター席の端に座ったために、既に逃げ場がなかった。  ママに助けを呼びたかったが、今度は生憎の電話中だ。でもママは基本、二人席への介入はしない。相手側を尊重することもあって、分け入らない方針なのだ。かわりに、心配そうな眼差しを琉威へと向けていた。 (どうしよう…。こういう時は、どう断ればいいんだっけ…)  何も話さなければ了承していると取られてしまう。何かないかと、脳内をフル稼働させてみた。 (そうだ、帰ろう!) 「あ、あのオレ、明日早いんで…」  やんわり断ったつもりだったが、相手は強引だった。 「そう? じゃ、送ってってあげるよ!」  男はママに琉威の分もあわせて精算するように言うと、「どこ行く?」と琉威の腰へと手を回す。 (どこ行くって…、てゆうか、そこ…お尻なんですけど…っ)  泣きたくなっていっそ文句を言ってやろうかと思ったが、なぜか声が出なかった。  伸ばされた男の手は、琉威の尻をしっかりと掴んでいた。それどころかその手は琉威の尻の感触を楽しむかのように揉みしだこうとする。 (や…嫌だ…!)  震えそうになる身体で腕を伸ばして男を押しのけようとしたその時、ガタンと入口のドアが大きく音を立てて開かれた。  客の皆がそのドアを振り返る。琉威もつられて振り返ると、そこには慌てた様子の飯嶋がいた。 「琉威…!」  飯嶋は琉威の名前を呼びながら、近くへと歩み寄った。そのまま琉威の横に座る相手を、不機嫌そうに睨みつける。 「悪い。遅くなった、行くぞ」  男は舌打ちをして別の席へと移っていった。  飯嶋には店を出ようと腕を引っ張られたが、琉威は椅子から立ち上がったとたんにヨロヨロと崩れ掛かっていた。知らない間に恐怖で腰が抜けてしまっていたらしい。 「…ママ、こいつの分はオレにツケといて」  ママがカウンターの中で頷く仕草をする。  飯嶋は琉威の腰を支えるようにして店を後にした。彼へと捕まる琉威の身体は、小刻みに震えていた。  すぐにタクシーを拾って、目的地を告げる。琉威のマンションだった。 「…あ、あの…。ありがとうございました…」  タクシーに乗り込んでシートへと座ると、身体の震えもだいぶおさまっていた。しかし、まだ震えの残る右手は未だ飯嶋が握ったままでいる。琉威は顔をあげて、握る手の先の彼を横から見上げた。  飯嶋からの返事は何もない。それどころか、琉威すら見ようともしなかった。  かなり怒っている様子だ。 「すみません………」  嫌われてしまったかもしれないと思うと、琉威は涙が溢れそうになる。でもここで泣いても、それはそれで更に嫌われてしまいそうで、琉威は出そうになる涙をぐっと堪えた。  琉威のマンションへはすぐに到着してしまう。話す間もないままにタクシーを下車し、飯嶋はマンションの入口まで琉威へと付き添った。そこまで来て、ようやく飯嶋は口を開く。 「もう、ひとりでも歩けるな?」  確認するようにして、今度は握ったままだった手もぱっと放した。 「あ…っ、待っ…」 「また明日」  つい呼び止めようとした琉威の言葉を、遮るようにして飯嶋は短く言った。そのまま大通りへと戻っていく。  飯嶋の顔は最後までニコリともせずに、ひどく不機嫌で悲しげな顔をしていた。 (あぁ…。完全に…嫌われた、かも…)  先ほどとは違う震えが琉威を襲う。それは次第に嗚咽へと変わっていく。  琉威の目からは、今頃になって溢れるようにして涙がこぼれ出た。
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